電車の中でゲーム

  • 2013年12月30日

電車の中でなにをしますか?
私はいつも人間観察。
まずは、どうしてそのブラウスに、そのスカートを合わせたんだろうとか、肌が綺麗過ぎるが、どんな美容法をもっているのだろうなどと、同じ車両に乗り合わせた人たちの容姿に注目。
さらに、連れと喋っている人がいれば、近くに位置取り、聞き耳を立てます。
これから向かうであろう取り引き先の人間関係を、予習する二人の会話に、そりゃあ、大変そうだと同情することも。

先日のこと。
その日は運良く座ることができ、さてさて、今日はどんな人が乗っているのだろうと、いつものようにきょろきょろしていると・・・左に座る女性に目が留まりました。
恐らく二十歳にはなっていないと思われるその女性は、一心不乱にスマホをいじっています。
いったいなにがあなたをそんなに夢中にさせているのと、好奇心に駆られて、その女性のスマホ画面を覗き込むと・・・なんと、花札ゲーム。
ほかにも色々ゲームはあるでしょうに、なんだって、花札ゲームなんでしょうか。
今、流行っているのでしょうか。
hanahuda
私が小学生の頃、正月といえば、花札でした。
当時はテレビゲームなどが出現する前で、大人と子どもが一緒に室内で遊ぶといったら、トランプやボードゲームが主流でした。
我が家でも、ひとしきりそうしたもので遊ぶのですが、やがて飽きてしまいます。
すると「それじゃ、そろそろ花札にする?」といったタイミングがやってきて、花札の登場となります。
なぜか、それまでとは明らかに真剣さが違って「ちょっとその前にトイレ」だとか「飲み物を用意するから、それからね」などと、スタンバイにも時間をかけます。
今考えると、あの真剣さは、どこからきたのでしょうか。
遊び方からして、トランプと同じようなもの。
なのに、明らかに、花札に臨む時には、気を引き締めなければいけないといった空気になるのです。
ルールは様々なトランプのゲームと比べても、花札の方がシンプル。
そこに面白さと、奥深さがあるのかもしれませんが。

友人が家に遊びに来た時に、花札をしていると、お菓子を運んできた母が「あら、お正月でもないのに」と言うぐらいだったので、我が家では花札は正月の風物詩の一つとなっていたようです。

花札の歴史がどれくらいあるかわかりませんが、今の十代の女性をも惹きつけるほどの魅力があるゲームなのですから、凄いもんです。
この正月、あなたも花札をやってみてはいかがでしょうか?
はまるかもしれませんよ。

コーヒーに執着

  • 2013年12月26日

なにに執着が激しいかといえば・・・コーヒーかもしれません。
高校生までは、あんな苦いものを、どうして飲みたがる人がいるのだろうと不思議に思っていましたし、どうしてもコーヒーを飲まなくてはいけないシチュエーションだと、砂糖とミルクを大量に投入し、まったく違う飲み物のようにして口に入れていました。
そんな私が、いつ、どのようなきっかけで、コーヒーを好きになったのか、定かではありません。
気が付けば、なくてはならない存在に。
ko-hi-
旅先などで、朝食が和食で、コーヒーが飲めなかった時には、頭の中には「コーヒー」という文字しかなくなり、その日の予定をすべてうっちゃっても、コーヒーを飲める場所まで行かなくてはとの強い想いに駆られます。
洋食の朝食でも、出てきたコーヒーが、残念ながら不味かったりすると、やはり「コーヒー」を飲める場所への移動を考えます。

人間ドックの日もそう。
その日は、朝からなにも口にせず、じっとしていろだの、強く吐けだの、目を瞑るななどと、あれこれ言われながら検査機器の間をベルトコンベアーにのったかのように移動し、心はささくれ立っています。
頭の中では「美味しいコーヒーが飲みたい」との欲望が渦巻いています。
午後三時頃になってやっと検査が終わると、真っ直ぐスターバックスへ。
クリニックが入っているビルの一階に、都合のいいことに、スターバックスがありまして、そこでラテを一杯。
コーヒーをずっと我慢して検査に耐えた自分に「よくやった」と称えながら飲む一杯の味は、格別。

ある地方都市に行った時のこと。
どしゃぶりの雨の中、不慣れな土地を地図を片手に、美術館へ向かいます。
傾斜のきつい、長い上り坂を息を切らせながらなんとか歩き、到着。
この時点で、コーヒーを欲求する気持ちはすでに沸点に達していました。
朝食で出たコーヒーは、大層薄くて「コーヒーです」と言われたから、コーヒーなんだなと理解したものの、そう言われなかったら、新しい飲み物かと思ってしまっただろう味で、ちゃんとしたコーヒーを飲みたいとの気持ちがあったのです。
が、駅から美術館の間に、コーヒーが飲めそうな店は見当たりませんでした。
しかし、それほど心配はしていませんでした。
美術館には大抵カフェが併設されていて、一服できるようになっているからです。
そこでは現代芸術家の作品が展示されていて、しばし芸術に浸ってから、さて、待望のコーヒーを・・・と思ったら、見当たらない。
スタッフに尋ねると、当館にはございませんとの返事が。
呆然としながらも、この近くでコーヒーが飲める場所は? と尋ねると、お待ちくださいといって、どこぞへ消えてしまいました。
しばらくして、先ほどのスタッフが、別のスタッフを伴って戻ってきました。その先輩っぽいスタッフが、とても自信なさそうな口調で「駅の反対側にあったと思うんですけど」と話しました。
ツッコミどころ満載で、どこから攻めたらいいのか、わからない。
駅から十五分以上歩いた距離にある美術館で、カフェを用意していないってどういうこと?
さらに、コーヒーを飲める場所がすぐに思い浮かばないって、どういうこと? 日常生活の中にコーヒーの存在がなさ過ぎ。
もっと言えば、駅の反対側にあったと思うと、はっきりしない情報を出してくるのは、どういう了見なのよ。
この街には、コーヒーは根付いていない・・・それが、なんだか口惜しかったです。

シャーペンを

  • 2013年12月23日

シャーペンを購入することにしました。
来年の手帳を買う時期だったため、同じメーカーのシャーペンにすれば、一緒に送付して貰えるので、送料が1回分で済むと考えたのです。
手帳のメーカーだけに、そのシャーペンは、手帳の端に引っ掛けるようになっていたり、その長さも手帳とぴったり同サイズになっていたりと、使い勝手がよさそうです。
それまで持ち歩いていたペンが、壊れてしまい、代わりの品を探していたところでした。

届いたシャーペンは、よくある円柱ではなく、平べったい四角柱のような形状。
手帳の端に引っ掛けた時、円柱より邪魔にならないよう、この四角柱にしたと思われます。
そのデザインはシャープで恰好いいのですが、書き易いかというと、また別の話。
これまでペンといえば、円柱タイプのものを握る・・・というのに慣れてきたため、四角柱の形状をしたシャーペンで字を書くのには、ちょいと慣れが必要そうです。
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さて、芯を入れようかと、あちこちいじっていると・・・バネのようなものが出てきました。
いくらなんでも芯を入れる際にバネが出てくるというのは、おかしな話。
出しちゃいけないものを出してしまったようなので、元に戻そうとするのですが、小さなスペースに、バネが入ってくれない。
歯を食いしばり、渾身の力を込めて、バネを押し戻そうとしているうちに、隣接している細長い部品のようなものが曲がってしまいました。
こうなると、さらにバネは元の場所に収まりにくくなってきます。
十五分ほども格闘したでしょうか。
ギブアップ。
どうやら、芯を入れる場所を探しているうちに、分解してしまったようです。
ゴミ箱を漁り、シャーペンのパッケージを拾い出して、この期に及んでそこにある説明書きを読み始めます。
が、特徴などはあれこれ書いてありますが、芯を入れる場所や、分解してしまった時に元に戻す方法などは、書いてありません。
当たり前ですね。
「んがぁ」と叫んでから、そのメーカーのHPにアクセス。
結局、シャーペン1本をまた購入することに。
カートに入れて、会計ページへと進み、シャーペンの値段より、送料の方が高いという事実に直面。
己に悪態をつきながら、購入ボタンをクリック。
後日届いたシャーペンを、恐る恐る手にし、慎重に頭頂部分にある小さな突起物を引っ張ります。
と、ストローのようなものが。
長いこと見慣れてきた、シャーペンの芯を入れる穴のようではありませんか。
そこに芯を入れ、突起物を元に戻して、カチカチと押してみると・・・芯が出てきました。
おおっ。
と喜ぶのも束の間、どうして、この場所がわからなかったのだろうと、首を傾げます。
頭頂部分から芯を入れるというなら、いたってフツーじゃないですか。
たまたま、その突起物を引っ張ろうとしたら、なにかが引っ掛かり、外れなかったので、あぁ、ここは違うのかと、すぐに別の場所を引っ張り出した・・・結果、分解してしまった。
といったことだったのでしょうか。
そそっかしいのか、おっちょこちょいなのか、すっとこどっこいなのか・・・。
どれも、ですかね。

街路樹の輝き

  • 2013年12月19日

先週、夜に銀座界隈を歩きました。
街路樹に施されたイルミネーションが綺麗で、街全体が輝いて見えました。
そうか。クリスマスが近いもんな、と納得。
普段も夜の銀座は輝いてはいますが、クリスマスバージョンのライトアップで、更にキラキラ度を増しています。
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帰りのタクシーの中から、輝く街をぼんやりと眺めました。
次の店を決めているのか、歩道いっぱいに広がった酔っ払いのグループの数が、例年より多い気がします。
アベノミクス効果なのでしょうか。
キラキラした街の中を抜け、タクシーは自宅前に到着。
下車して、ふと見上げると、マンションの隣にある事務所の敷地に立つ桜が、その体に電飾コードを巻き付けていて、光っていました。

そこは、町内会が所有している土地のようで、祭りの時には、そこが神輿や山車のスタート地点となりゴール地点になる、中心の場所です。
その端に立っているのが、一本の桜。
春になると、その桜を見上げている人をよく見かけます。
私もよく足を止めて見上げては、あと1週間ぐらいかなとか、明日の天気予報では雨らしいから、ヤバいなとか、開花の時期や、散る時期を読んだりしています。
が、注目を集めるのは、春の時期のみ。
それ以外は、そこに木があることさえ、忘れています。
それが、またこの時期、突然、その存在感を私たちに見せつけてくるのです。
電飾を纏うことで、年末でっせと、教えてくれます。
たった一本ですから、却って寂しい感じになっているように見えなくもありません。
銀座のイルミネーションを見てきた後であれば、なおのこと「しょぼっ」と思ってしまいます。
が、この桜の隣のマンションに住み始めて7年。
毎日見かけているうち、ただの桜とは思えなくなっていて、勝手に擬人化し「ただいま」と心の中で呟けば、「お帰り」と言ってくれてるような気に。
だから、このしょぼさも、また愛らしく思えて、にやついてしまうのです。
もう、ここが故郷になったのでしょうか。
一本の桜が、そんな気にさせるというのが、なんとも不思議です。

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