以前住んでいた街に個人経営のパン屋がありました。
駅前の一等地にありましたが残念な店でした。
店内を蠅が飛んでいることに気付きました。
剥き出し状態で置かれたパンに蠅がとまりそうになったので、私は縋るようにレジ前のスタッフへ目を向けました。
そのベテランらしき女性スタッフは、私の視線を受け止めると「入ってきちゃうから、しょうがないのよね」と言い訳を口にしただけでした。
追い出そうとするふりさえしてくれませんでした。
包装されているパンにしようと考えた私は、サンドイッチを摑みました。
ふと裏返してみると、消費期限が書かれたシールが。
そこに記された時刻からは、すでに二時間が経過していました。
ウインドウ越しに店内を覗く度、お客さんの姿がなかった理由を知った瞬間でした。
二度とその店に行くことはありませんでしたが、とても印象に残ったせいか、いつか個人経営のパン屋を小説に登場させようと思わせてくれました。
スポーツ観戦が好きです。
そこには感動と興奮があるから。
スポットライトが当たる部分だけでなく、裏に潜む理不尽さにたまらく惹かれるからでもあります。
願い通りの結果と成績を残せる選手はごく僅か。
ほとんどの選手が思い通りの結果を出せずに終わる。
努力しても報われない。
不運によって人生を変えられてしまうことのなんと多いことか。
それは私たちの人生もそう。
でもというか、だからこそ人生は味わい深い。
運と不運と、偶然と必然が複雑に絡まり合う人生。
願っていたのとは違うものになったとしても、そこに笑顔や楽しさがあるのなら、その人生は素晴らしい。
運命の理不尽さに翻弄されながらも、前に進む女性を描きたいと思いました。
歩みが遅くても、間違った方へ進んでしまっていたとしても、とにかく一歩ずつ。
そんな女性をパン屋の娘にしたらどうだろうと思い付き、編集者に持ち掛けたところ、興味をもって貰うことができました。
そうして完成したのが「じゃない方の渡辺」(単行本「オーディションから逃げられない」から書名変更)です。