チャンスはそう何度もやって来るもんじゃない。
そのチャンスが来た時、それをモノにする人と、モノにできない人がいますね。
この差はなんだろうか・・・なんて考えてみたりします。
緊張してしまったとか、実力が足りなかったとか、色々ですかね。
そういったなかで、性格というのも大きな要素でしょうね。
ライター時代に知り合った別のライターさんが、大きな仕事の話が来たのに、自信がないとの理由で断ったと聞いて、腰を抜かしそうなほど驚きました。
せっかくのチャンスなのに、勿体ない事をするもんだとも思いました。
OLからフリーライター、作家へと職業を転々としてきましたが、今振り返って思うのは、私の場合「無知」が結構役に立ったなということ。
目の前の壁がどれほど高く、分厚いか、そういうのがわかってしまう人は、私には無理といった考え方をもつのでしょう。
が、壁の高さや材質や、厚さに対する知識がまったくないと怖くない。
だから、いきなりよっこらしょと登り始めてしまう。
途中で「あれっ、これは大変かも」と気付くのですが、ここから戻るのも大変だから、取り敢えずもうちょっと先まで行ってみるか、といったことになります。
ライター時代、食べてもいないコンビニスイーツ五十種類を、各メーカーの広報資料から想像して記事を書けという仕事がきました。
スイーツを食べてもいないのに、味を書き分けろという無理難題。
「食べてもいないのにですか?」と編集者に確認すると、「繊細な舌があるってわけじゃないんだから、食べたって、食べなくたって、想像で書くのは一緒だろ」と言われ、あぁ、確かにと納得。
こうした仕事を何度かこなしているうち「これ、フィクションじゃん」との思いが。
そして、もしかしたら小説を書けるんじゃないだろうか? との考えに行きつきます。
こういう安易な思考経過が、私の雑な生き方を象徴しているようで、お恥ずかしいったらありゃしません。
こうした時知識があれば、そんなの無理に決まってんじゃんとか、実力がなさ過ぎるとかの冷静な判断ができたでしょう。
が、無知というのは凄いもんです。
壁をよじ登り始めてしまったんですね。正気の沙汰とは思えません。
書き終えた時には、心身共にボロボロになっていました。
運良く本にしていただけることになり、担当の編集者との打ち合わせの席でのこと。
フツー第1作目というのは、自分に近い主人公にしたり、身近な人のことを書いたりするもんなんだけどどうしてこの主人公にしたの? と尋ねられました。
その作品は中学生の少年が主人公だったので、編集者は疑問に思ったようです。
初心者が自分から遠いキャラクターを書くのは難しいといった常識さえなかったせいです。
「作品の構成上少女ではあり得なかったので、少年にしました」と私が答えると、「それじゃ、大変だったでしょ」と言われたので「どういうキャラクターの設定にしたら書き易いかとか、そういうことはまったく考えなかったので」ともごもごと言い訳。
「知らないって、凄いね」と呟く編集者に、「ですね」と相槌を打つことしかできませんでした。
もし私が無知じゃなかったら、目の前の壁に怖気づいて上り始めなかったでしょう。
無知であることで破れる壁もあるように思います。
銀行からDMが届きました。
あなたの担当が、〇〇から△△に変わりました・・・と書かれています。
私に担当がいたのか?
と、びっくり仰天。
以前愛用していた化粧品メーカーからも似たような文面のDMが来たことがあります。
その時も同じようにびっくりました。
まず、自分に担当がいたらしいということに驚きましたし、その企業が担当制だったことにも驚きでした。
私からなにかを相談したことも、企業側から売り込まれた記憶もなし。
会社内部で、ここからここまでがお前の担当ね、とでも決まった中に、私が入っていたのかもしれません。
が、ノーコンタクトだったのに、担当変わったからよろしくーと言われても、こっちはなんのこっちゃです。
なにか聞きたいことができたら、その人を指名しなくてはいけないのでしょうか?
その人が離席していたり、会議中だったりしたら、その人に折り返しの電話をするよう頼まなくてはいけないのでしょうか?
電話に出てくれた人がその場で解決してくれた方が、よっぽど便利なんですが。
パソコンの調子が悪くて、サポートセンターに電話をする時があります。
故障担当のオペレーターさんの指示通り、あっちゃこっちゃ動かした結果、解決。
ところが電話を切った後で、再び動かなくなるといった事態に見舞われることがあります。
そんな時、さっきの人と話をしたいと強烈に思います。
たまたま電話が繋がったオペレーターさんに、またこうなってああなってという事情を説明するのは、二度目だけにとってももどかしい。
こうした時、担当制にして貰えないだろうかと心から思います。
担当制にして欲しい時と、そうじゃなくていい時がありますね。
通っている歯科クリニックは、3年ほど女医さんが担当でした。
が、ある日、歯が猛烈に痛くなり、そのクリニックに駆け込みました。
そこは予約制。
その時の私のように予約なしの場合は、担当ではなく、手の空いたドクターが診ることになるがいいかと聞かれ、ぶんぶんと首を縦に振りました。
長いこと待たされた末に診てくれたのは、男性のドクターでした。
結局、歯に悪いところはないという診断で治療はしてもらえず、そのまま帰宅というしょぼい結末に。
その時の痛みは2日後には消え去り、あの痛みはなんだったのか不明のままです。
それから数ヵ月後、歯石を取りにそのクリニックへ行くと・・・歯石取りを終えた衛生士さんが「担当の先生にチェックしてもらったら終わりになります」と言います。
で、待っていると、現れたのは急遽診てくれた時の男性ドクター。
えっと、私の担当はあなたにスイッチしましたか?
と聞いてみたいところですが、そこで「私の担当はあなたじゃなく、女の先生です」と言いたいほど、前の女医さんと信頼関係があったわけじゃない。
で、質問することなく、男性ドクターに「お世話様でした」と言って帰って来ました。
それ以降、歯石取りの最終チェックをするのはその男性ドクターになりました。
やはり、私の担当はスイッチしたようです。
こんな担当者の変更もあります。
ネットであっちこっちのHPを移動していると、画面の隅には広告が。
それは、前にアクセスしたことのあるHPを運営する会社の新製品の告知だったりして、またこっちのHPにも来てねと誘ってきます。
これは、以前私がどこにアクセスしたかがわかっているからでしょう。
そうしたデータが企業の広告に利用されていると初めてわかった時、見張られているように思えてちょっとヤな感じがしたもんですが、それもやがて慣れました。
最近よく画面の隅に出てくるのが、ある化粧品メーカーの広告。
しょっちゅう、出てくる。
というのも、そこのHPに月に2度はアクセスしているから。
そこの化粧品をラインで揃えているため、定期購入するのに、そこのHPにはアクセスする必要があるんですね。
だから、もう私にお得なトライアルセットがありますよといった告知をする必要はないのに、とにかく1度試せよと、しつこく広告ページが訴えかけてくる。
これは、アクセスしたデータとしか連動していないからでしょうね。
実際に購入している客かどうかまでは、そのデータに入っていないので、やけにアクセスしてくるヤツという分析にしかなっていない。
無駄打ちもいいところ。
1回の広告表示でいくらといった料金設定であろうに、必要のない私に何度も金をかけてしまっている。
が、これも近いうちに解消されてしまうんでしょうね。
実際に買ったかどうかのデータも加わって、さらにいつ買ったかなんて情報とも合わさっちゃう。
そろそろ化粧水がなくなる頃ですが、買い忘れていませんか? といったピンポイントでアタックしてくるような広告になるのも時間の問題の気がします。
こうなったら、便利なような気もするのですが・・・やはり、見張られているようで、心地いいもんではありません。
一方で、リアルなお店の人から「いつものですね」なんて言われると、あら、私のことを覚えているのね、なんて思って、どっちかっていうと嬉しくなったりします。
得意客になったみたいという感覚は、満更でもない。
同じことでも、顔が見える相手からと、顔の見ない相手からでは、受け取る気持ちが変わってくるから不思議です。
こんな違和感も始まった時だけで、やがて慣れていくのでしょうか?
今日は最近観た映画の中から面白かったもののご紹介。
まずは「ダイ・ハード/ラスト・デイ」。
世界で最もツイていない男、ジョン・マクレーンを演じるブルース・ウィリス主演の映画の第5弾。
こういう映画は、ストーリーがどうだとか、キャラクターがなんちゃらかんちゃらといったことは、言っちゃいけないのです。
たくさんの武器でバンバン打ち合って、大量の火薬を使ってビルが爆破されて、カーチェイスして、すかっとしたぜ、で終わりにすればいいのです。
第5弾ともなると観ているこっちは、ドキドキなんて一切しない。
弾は絶対にマクレーン親子には当たらないとわかってますからね。
それをマンネリとするか、安定感と取るかは自由。
私は安定感と受けとり、充分楽しみました。
疎遠な息子と父親のすれ違いっぷりなんかはきっちり描かれていて、アクション映画の中の味付けとなり、いい感じに仕上がっていました。
次にご紹介するのは、上記とはまったく趣の違う作品「最強のふたり」。
フランス映画には珍しく、ちゃんとしたストーリーがあります。
また、これが実話を基にしていると聞くと、ちょっと幸せな気分になります。
それは、こういう友情があったらいいなと思えるからでしょうか。
大富豪のフィリップの介護を、スラム街出身のドリスがすることになって・・・というストーリー。
二人が出会ってから、それぞれの人生が輝き始めるのをワクワクしながら見守ります。
事故で首から下が動かないフィリップにも、面倒な家族を抱えるドリスにも、奇跡は起きません。
身体は不自由なままだし、家族関係は改善しない。
それでも、二人の間に生まれた友情があれば、人生は悪くないと思えるようになる。
そんな人生の素晴らしさを感じさせる映画です。
フィリップ役のフランソワ・クリュゼの演技も見ものの一つ。
首から下が麻痺しているという役なので、顔だけでの演技が要求されて、それは難しいだろうと推測します。
こういった役では、いつも以上に大袈裟な演技をしてしまいそうなところですが、彼は表情の変化を抑え気味に演じています。
ドリスとの会話を楽しんでいたり、わざと困らせて喜んでいたり、哀しんでいたりといった気持ちをとても繊細に表現しています。
それが、この映画の品を高め、大人が鑑賞し得る作品にしているように感じました。
オススメの作品です。