ベトナム語版が
- 2018年11月01日
出版社から「嫌な女」のベトナム語版が送られてきました。
それがこちら。
すでに4月には発売されていたといいます。
おいおい。
半年間も送ってこなかったってのは、どういうことだいと思う訳ですが、海外の場合こういうことはしばしば起こる。
完成した本を著者に送るという作業は、仕事リストのかなり下の方にあるみたいです。
中を見てみると・・・ベトナム語。
当たり前なんですがなんか不思議な感じがします。
作家になる前の私の読書遍歴はかなり偏っていました。
海外の翻訳小説ばかりだったのです。
しかもミステリー。
文化も環境も価値観も、時には時代も全く違う国の作家が書いた物語を味わうのが好きでした。
自分と作家に共通点が少なくても、登場人物の行動に一喜一憂する不思議。
小説の底力を感じていました。
だからこそ自著が海外で翻訳出版されているのは、感慨深いものがあります。
徹子と夏子の人生を、どんな風に味わってくれるのでしょうか。
時々私の文章を「乾いている」「翻訳小説っぽい」と表現される方と出会います。
乾いているか湿っているかはわかりませんが、翻訳小説っぽいとの指摘には「無自覚ですが、恐らくそうかなと思います」と答えます。
自分では意識せずとも、これまでに読んできた大量の翻訳小説の影響は、受けているだろうと思うからです。
作家を志した時にこの偏った読書傾向はマズいだろうと考えて、日本の作家の小説を読むようにしました。
それは今もそうで海外の翻訳小説だけでなく、日本の作家の小説も読みます。
ただ・・・先日のこと。
編集者と書店に行く機会がありました。
編集者も私も勝手に店内を動き回ります。
いつしか本探しに夢中になり、編集者と一緒だということを忘れてしまう。
本を捲っていると隣から声が。
「桂さんどこかなって思って、きっと海外小説の棚の前だろうなと来てみたら、当たりました」と。
「に、日本の小説だって買うし、読むよ」と、買うつもりで置いてあった本を指差しました。
そこには日本の作家の小説が2冊と、海外の翻訳小説が2冊。
「それ、買うんですか? ちょっと見ていいですか?」と編集者が本を手に取る。
なんだろう。この恥ずかしさは。
「へぇ、こういうの選ぶんだ」と思うんだろうな・・・と考えると、なんか落ち着かない。
自室にある机の引き出しの中を覗かれているような感覚。
まだ読んでいないので、あくまでもタイトルとか、帯の文句とか、装丁の感じで選んだだけなので、当たりか外れかわからないし、自分好みかどうかも不明。
それでもたくさんある本の中から、それを選んだということに、自分の好みと意志が反映されている・・・そう思うからこそ、自分が選択した本を検められるのが、のぞき見されたようなこそばゆい感じになるのかも。
本ってなんか不思議ですね。