地下鉄のホームで

  • 2014年02月10日

ホームで電車を待っている時のことでした。

ベンチに座っていたオーバー60歳と思しき女性のケータイに、電話が入った模様。
聞くともなく聞いていると、どうやら、相手は同じ習い事をしている女性のようです。
展覧会らしき会場の場所を尋ねてきた相手に向かって、ベンチの女性は言いました。
「あなたを私が連れて行ってさしあげますよ。そういう連絡が入るだろうと思っていたので○○駅に今いるので、来てください」と。
ん? どういうこと?
と思ったのは私だけではないようで、電話の向こうの女性も、よくわかっていない様子。
ベンチの女性は、同じ話を繰り返します。いたって冷静に。
どうやら、その日展覧会をやっている会場に、電話の相手の人物は一人で行けないだろうと予想していたベンチの女性は、駅で問い合わせの連絡が入るのを待っていたというのです。
そこまで親切なら、どうして昨日までのうちに、電話をして待ち合わせの約束をしなかったのでしょか。
不思議です。
その人から電話が入らない可能性もゼロではないわけで、どれくらいの時間、ホームで待ち続ける覚悟があったのでしょう。
tikatetu
電話の相手は恐縮している様子。
でしょうね。
今、自宅にいるその女性は、これから化粧をして、着替えをしてになるので、長く待たせることになるから、どうぞ先にいらしてください・・・といった言葉を発しているように、私には思われます。
聞こえてはいないのですが。
ベンチの女性はしかし、一切譲歩する気配をみせず「いくらでも待っていますから。あなたは一人じゃ、行けないんですから。○○駅ですから」と応戦。

電話の向こうの女性も、こうなったら急いで身支度をして向かわなくてはと、観念したのでしょう。
今、ベンチの女性がいる場所を確認してきたようです。
すると、ベンチの女性は「○○駅です。××線の。えっ? どこで乗り換えるか? それは知りません。とにかく、どこかで××線に乗り換えてください。○○駅にいますから」と話します。
びっくりです。
乗り換えの仕方なんかは、調べたり、教えたりする気はなしなんですね。
何時間でも待つ。だから、とにかく、○○駅に来い。
というのは、親切なんだか、不親切なんだか。
世の中には、いろんな待ち合わせがあるようです。

ロープウェー

  • 2014年02月06日

観光地などに行くと、よくあるのがロープウェー。
観光客を高いところへ運び、そこから景色を楽しんでくださいというおもてなし精神の現れでしょうか。
そういったところは、大抵のガイドブックに載っていたりするので「これから、どうする?」「ロープウェーがあるらしいよ」「じゃ、それ乗ってみる?」といった流れになり、乗り込むことになるのです。
私は間抜けなので、こうした話し合いの際、ふんふんと頷いていたりするんですね。
この時、自分が高所恐怖症ということを忘れているのです。
で、乗り込み、ぐらっと大きく揺れて、強い恐怖心を覚え、そうだ、私は高所恐怖症だったんだと思い出すのです。
私は高所恐怖症なので、下で待ってるから、皆行ってきなよと、なぜさっき言わなかったのだろうと後悔します。
が、すぐに、そうか、今まで忘れていたからかと気付き、己の間抜けっぷりに、がっかりします。
ro-puule-
先日乗ったロープウェーは、床の中央付近の一部を透明にしてありました。
これ、迷惑です。
「わー」などとはしゃいだ声を上げて、窓側に走り寄る友人らを尻目に、私は窓から少し離れた位置にあるポールに摑まります。
ポールに腕をしっかりと絡め、視線はなるべく遠くへ。
スマホで撮影し合ったりして、盛り上がっている友人たちの中で一人、緊張している私に気付き、どうしたの? と言ってきます。
高所恐怖症だとカミングアウトすると、あれっ、そうだっけ? とのコメント。
長い付き合いなんだから、私が高所恐怖症だということを覚えていてくれたっていいのにと、八つ当たり。
だったら、下で待ってればよかったじゃんと言われ、その通りとうな垂れるしかありませんでした。

頂上に着くまでの間、私の頭には最悪の場合の展開が。
故障して、途中で止まってしまい、数時間もこの中で待たされる。
トイレに行きたくなってしまう。
歯を食いしばり、トイレを我慢し続ける。
やっと地上にレスキュー隊がやってきて、ロープを使って、登ってくる。
これから一人ひとり、ロープで降りてもらいますと言われる。
無理と拒否する。
が、トイレに行きたいという身体からのシグナルを無視することもできない。
いっそ、気を失いたいと願う。
意識がない状態で、ロープに括り付けて下ろして欲しいと。
結局、都合良く失神できず、ロープに括り付けられる。
いざ、降りようとした途端、強い風が吹きつけてきて・・・。
といった具合。
もうスーパーマンぐらい登場させないと、悪い方へと広がっていく想像を収拾できない事態。
顔色が悪いよと、友人らに心配され出した頃、ようやく頂上に到着。
着いてしまえば、こっちのもの。
急に元気を取り戻し、名物だというお饅頭を食べたり、友人のスマホにピースサインをして納まったりと、旅を満喫。
再びロープウェーで降りなくてはいけないということに気付くまで、エンジョイするのでした。

火の用心

  • 2014年02月03日

高層ビルが立ち並ぶいっぽう、昔ながらの町並みも残っている場所に住んでいます。
昼間はビルで働く人たちの姿を大勢見かけますが、夜になると、犬を散歩させている親子連れに遭遇するなど、時間帯や曜日によって、雰囲気をがらりと変化させる街でもあります。

この街では、毎年12月頃から、「火の用心」という声が聞こえてくるようになります。
私が住んでいるマンションの隣にある、町内会の集会所で、大体午後の11時前後から火の用心隊の見回りがスタートします。
住民に注意喚起をするため、拍子木をカチ、カチと打ち鳴らしながら「火の用心」と大声を上げて町内を練り歩くのです。
これは、週に2、3回不定期で行われているようです。
30分程で帰って来るようなので、街の規模が大きくないことがわかります。
hinoyouzinn
引っ越してきて初めて耳にした時には、こんな都会で、「火の用心」という声を聞くことになるとはと、かなり驚きました。
やがて慣れてくると、「火の用心」の声の種類が七、八種類あることに気が付きました。
交代で見回りをしているのでしょう。
小さい声の人、かすれ声の人、やけに1つひとつの音を伸ばす人・・・と、それぞれの個性を理解するようになります。

その中に1人、とても上手い人がいます。
なにをもって、「火の用心」を上手いと判断するのかというのは、それぞれの考えがあるかとは思いますが、私のお気に入りのその人のは、楽しそうで、まるで歌うようなのです。
嫌々やっているのか、楽しんでやっているのかというのは、結構受け手に伝わるもんですよね。
その人は、とても楽しそうに言うのです。「火の~よ~じ~ん」と。
さらにアドリブも多くて「みなさま~、今夜もさむ~くなって~、まいりました~。月が~とっても~きれい~なので~、明日は~晴れそうで~す。くれぐれも~火の元には~ご用心くださいませ~」といった具合。
オッケー、わかった。と思わず返事をしそうになったことが、何度あったことか。

火の用心と言いながら町内を見回っている人たちに対して、何の役に立っているんだとか、騒音だとか、批判的な人もいらっしゃるようですが、私はいつまでも、皆さんに続けて欲しいなぁと思っています。
おっ、来たな。寒いのに、ご苦労様と、労う気持ちでいっぱいです。
さてさて、今夜は、お気に入りの人の「火の用心」を聞くことができるでしょうか?

好きな花は

  • 2014年01月30日

好きな花はなんですか?
私はやっぱり薔薇です。
「やっぱり」という副詞を使わせてしまうものが、薔薇にはありますね。
小説の中で、薔薇が好きという設定の人物を登場させたことがあります。
薔薇の中でも、特にどの薔薇を好きということにしようかと、勉強するつもりで図鑑を開いて、びっくり。
物凄い数の品種が薔薇にはあるんですね。
それだけ研究され、開発されているということでしょうから、「やっぱり」薔薇は多くの人に愛されている花なのでしょう。
bara
薔薇のどこか好きかといえば、まず、その圧倒的な存在感です。
女王という位置が相応しい堂々とした風格がありますね。
また、そのボリューム感や、全体のフォルムの美しさが、美しい花々の中にあっても断トツです。

基本的に花はなんでも好きなのですが、苦手なものもありまして・・・。
百合はどうも苦手です。
ちょいと存在感が大き過ぎると感じてしまいますし、花粉が服につくと、絶対に落ちないというのもマイナスポイント。
ただ、生命力の強さには感動を覚えてしまうことも。
たとえば、昼に買ってきた百合を花瓶に挿しておくと、1時間後にその前を通りかかってびっくりするようなことも。
たった1時間で、つぼみの先が割れて、花が開こうとしています。
さらに1時間後になると、ぐわっと花びらが広がっていて、ここだけ早送りになっているんじゃなかろうかと疑ってしまうほどの生命力。
匂いも強くて「私はここよ。さあ、見てちょうだい」と言わんばかりの主張ぶりに、ちょっと辟易してしまいます。

カーネーションも苦手です。
びらびらとした花びらがごしょっと重なっていて、ゴージャスになりたい気持ちがありありなのですが、失敗しちゃってるといった残念な印象が拭えないのです。
花びらの1枚1枚は繊細なのですから、可憐という方向に進めばよかったのに、小さなサイズにたくさんの花びらを密集させたフォルムなため、可憐にはなれず、結局は薔薇のように豪華にもなれなかったというダメっぷりなのです。
人間にたとえると、すっぴんで充分可愛い女の子が、自分とは全然違うイメージの大人のいい女を目標としてしまったため、結局は素材の良さは全部消えてしまい、本物のいい女には程遠い、ただの厚化粧の痛い女が生まれてしまったといったぐらい、勿体ない状態なのです。
ただ、同情したくなるような時もあります。
カーネーションが主役になれるのは、母の日だけ。
それ以外の日では、主役になることはない。
花束やアレンジメントで、よく使われる素材がカーネーションではありますが、決して主役としての扱いではなく、脇役としてなんですね。
便利に使われるのに、称賛はほかの人にもっていかれてしまう会社員や、本命にはなれず、いつも二番手、三番手になってしまう女性といったポジション。
なんか・・・感情移入してしまいますね。

ブログ内検索

  • アーカイブ


  • Copyright© 2011-2024 Nozomi Katsura All rights reserved. No reproduction and republication without written permission.

    error: Content is protected !!
    Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.