生まれて初めて飛行機に乗ったのは、高校の修学旅行で九州に行った時でした。
私のように初体験の生徒が多く、緊張と興奮の顔で、シートベルトをして離陸を待ちました。
やがて、動き出したような気配はあるのですが、初めて故、今一つ、よくわかりません。
そのうち、ゆっくり動いていることに気が付き、こんなに、のんびりした感じなんだぁと思っていたら、どうも、止まってしまったような気配。
中央付近の席にいた私には、窓外の景色を見られず、今、飛行機がどうなっているのか、皆目わかりません。
もしかして、もう飛んでる? などと呑気な勘違いをしていると、突然、機体が動き出しました。
隣席の友人と「動いてるね」と確認し合います。
すると、身体にGが。
思わず、友人と手を繋ぎ、息を凝らします。
やがて、ふわっと浮かんだような感覚が襲ってきて、窓側の席にいた同級生から「飛んだ」との声が。
すると、機内からは、拍手が。
私は隣席の友人と、「飛んだね」「うん、飛んでるね」と確認しあってから、同級生たちと同じように拍手をしました。

今、振り返ると、なんとも、可愛い高校生たちですね。
シートベルトを外していいと言われると、スチュワーデスさんと(当時はCAではなく、スチュワーデスと呼ばれていた)、写真を撮るための列が、早速できていましたっけ。
「トイレが狭いの~」なんて、一人が言い出せば、「私も」と、ただ一目見るためだけに、トイレの前にも行列ができていました。
なにもかもが初めてで、物珍しくて、興奮しっぱなしの搭乗体験でした。
行ったであろう名所旧跡のことなんて、まったく覚えていないのに、こうしたことは、思い出せるもんですね。
初めての飛行機への搭乗。
皆さんは覚えていますか?
映画「プレシャス」をDVDで観ました。

ここまで酷いかと、思わず、眉間に皺を寄せてしまいそうになるほどの、不幸が描かれていく一方で、主役のプレシャスが確実に変化していく様子は、小さな希望を与えてくれます。
プレシャスの母親の女優さんが、もう最高。
この人だけ、演技じゃなくて、素で勝負してるんじゃないかと思うほど、最悪の女を見事に演じています。
日本の女優さんで、これだけ最悪な女を演じられる人はいるだろうかと考えてみると、ちょっと見当たりません。
酷いセリフを言ったり、演技をしていても、どうも嘘くさい。
「カット」と監督の声が掛かった途端、「お疲れ様でした~」と笑顔で言いそうな、本当はいい人な感じが、ちらちら見えてしまうのです。
これに比べて、海外の役者さんの中には、コイツ、サイテーと、本気で思えるほど、根っからのヤなヤツという演技ができてしまう人が多いように思うのですが、私だけでしょうか。
悪いヤツという役をやる時、自分と違い過ぎて、肩に力が入ってしまうのでしょうか。
以前、時代モノの映画「十三人の刺客」で、稲垣吾郎さんが、狂気をもつ殿様役をやっていましたが、この演技は最高でした。
こういう狂った殿様役だと、思いっきり力んだ、演技をしてしまいがちだと思うのですが、稲垣さんは、敢えて、軽く演じていました。
それが、却って、狂気を際立たせ、観てるこっちは、怖いのなんのって。
鼻歌まじりに、人を殺したり、一欠けらの人間性も感じさせない行動が、やけにリアルにこちらの胸に迫ってきました。
稲垣さんが凄い役者さんだというのが、よくわかる映画でした。
こうしてみると、やはり悪人の演技というのは一通りではなく、難しいというのが、わかりますね。
それだけ役者の腕の見せ所とも言えるでしょうか。
小説の中に登場させる、悪役というのも、難しいもんでして、どこまでヤなヤツにするかという判断に、いつも苦労しています。
加減の調整が、難しいんですね。
いつか、魅力的なヤなヤツを書けるようになりたいもんだと、思っています。
王子って、いるんですね、現実に。
それは、先日行った、バレエ公演のこと。
新国立劇場で行われた「シルヴィア」という作品を観ていたら、「わわわ、王子様だ」と、なぜか慌ててしまいました。
召使いという設定で、割と地味な衣装で登場してきたのですが、明らかに、佇まいがフツーじゃない。
作品の内容をまったく知らない私としては、彼がどういう役なのか、わからないながらも、ただの召使いが、こんなに素敵じゃ、マズくない? と思っていました。
と、ストーリーが進んでいくと、彼が主役であることが、わかっていきました。やはり。
あれやこれやあって、最後はめでたし、めでたし、となるのですが、そういったストーリーなどは、どうでもよくなるほど、王子様に惹きつけられてしまいました。
とかく、その業界で、比較的イケメンの人を、「○○王子」と名付けて、喜ぶという風習がありますが、このダンサーは、そういったレベルとは別格。
タイツ姿で踊るわけですからね。
お伽噺の中にしか存在しないと思っていた、「本物の王子様」なのです。
福岡雄大という方で、プログラムによれば、たくさんの賞を取られた様子。
実力もルックスもOKの方のようです。
今後が、さらに楽しみですね。

久しぶりに観た、バレエだったのですが、やっぱり素晴らしいですね。
尋常ではない練習を何年も重ね、今、そこに立っているんだろうなぁと思うと、頑張れーと思わず、応援したくなります。
踊りまくっても、息なんか、上がってませんしね。
上がっていたとしても、舞台上では決して見せません。
私なんか、地下鉄の階段をちょっと上っただけで、フーハーいってしまいますが、鍛え方がハンパじゃないんでしょうね。
隣席の女性は、途中、舟を漕いでいましたが、最後になると突然「ブラボー」と叫んでいました。
観てなかったじゃん、あなた。と、つっこみたくなりましたが、ブラボーと口にできる勇気に免じて、ただ、横顔を見つめるだけにしておきました。
平日の昼間の公演だったのですが、満席状態で、大盛況でした。
もしかして、今、人気ですか?
夢を見るなら、バレエかもしれませんね。
非現実感が、堪らなくステキです。
しんどい日常から、かけ離れた世界に、しばし浸るだけで、明日への活力になりますもんね。
子どもの頃、本や新聞、雑誌などを跨いだり、足でちょいっとどけたりしようものなら、母の雷が落ちたもんでした。
「字・文章」を足蹴にするなど、もってのほかだというのです。
「字・文章」には、書いた人の魂が宿っているから、それを粗末に扱うことは、まかりならんというのが、母の言い分でした。
昔は、こういう教えがあったのでしょうか?
「字・文章」にまつわる仕事をしていたわけでもない母が、なぜ、印刷物にだけ、これだけ主義をもっていたのかは、よくわかりません。
今、小説を書く身になってみて、この言葉を大変奥深いと感じるのであって、当時は、なんだ、そりゃ、ぐらいに思っていました。

それだけ活字を大切にしている母が、生ゴミを捨てる時には、新聞紙に包んでからゴミ容器へ入れているのを見た時には、子どもながらに、「言ってることと、やってることが、違くない?」と感じたものでした。
ある日、生ゴミを新聞紙の上に置いた母に、それは、魂を汚すことにはならないのかと、尋ねました。
私から真っ直ぐ突っ込まれた母は、一瞬、言葉を失ったようにも見えましたが、すぐに「これだけは、許してくれることになっている」と反論しました。
「誰から許してもらってるの?」とさらに尋ねると、「新聞協会から」との答えが。
嘘のクオリティーが低すぎて、がっかりしたことを覚えています。
もう少し、ましな言い訳を考えてくれと、子どもながらにつっこんだもんでした。
今、文章を書いて、飯を食っている私としては、本、雑誌、新聞といった印刷物を足蹴にすることはありません。
魂を大切に扱うよう、心がけてはいますが、新聞や雑誌は、どんどん捨てていかないと部屋に溢れてしまいます。
そこで、週に1度の分別ゴミの収集日まで、引き出しに一旦ためておきます。
その引き出しに入れる際、字の向きには、こだわります。
引き出しを開けた時に、目に入る字の向きが、正面(普通に読める状態)だといいのですが、逆さまになっていたり、横向きになっていたりすると、どうも落ち着かないのです。
それで、字の向きに注意して、引き出しに仕舞うのです。
大雑把な性格の私にとって、この小さなこだわりは、非常に珍しく、自分でも、不思議だと思いながらも、止められません。
なんだか、人それぞれですね。