• 2011年08月01日

最近観たDVDが、たまたま同じテーマを扱っていました。

Dearフランキー

 『Dearフランキー』では、家族の中でつく「噓」が、『大いなる休暇』では、村全体でつく「噓」がテーマです。

大いなる休暇

 どちらの映画にも、一つの噓をつき通すために、別の噓を重ねていかなくてはならなくて・・・といったストーリーになっています。

 自分のためではなく、誰かのためにつく噓は、アリだと私は思います。
よく、「噓をつかない人が好き」とか、「噓だけはつかないで」と言う人がいますが、そうした言葉を耳にする度、本当に? と思っていました。

 以前観た、映画の中で、ジム・キャリーが、突然、噓がつけなくなった人物を演じていました。彼の日常生活は大変になります。人間関係はボロボロになってしまいます。映画を通して、皆が日常の中で、たくさんの噓をついていることを、面白おかしく表現していました。
くすくす笑いながら、その映画を観ていましたが、実際に噓を絶対につかないと決めたら、恐らく私の人間関係も似たようなものになるだろうと想像して、ちょっと怖くなりました。
たいして美味しくないものでも、いただき物であったら「美味しい~」と言うし、新しい服だと思えば、「可愛い。どこの?」と興味もないのに尋ねるし、普段の仕事ぶりを評価していない人に対して、いい仕事をさせるがために「頼りにしてるわ~」と言っておだてたりしてますからね。そういうのを全部、口にできないとなったら・・・さぞかし人間関係はぎすぎすしたものになることでしょう。
必要な噓ってありますね、やっぱり。

 相手を思い、優しい噓をつく。
そこから物語が始まる・・・そんな小説を書いてみたくなりました。

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