世阿弥

  • 2011年09月19日

大学の卒論テーマに選んだ人物は、世阿弥でした。

 どうしてもこの人物を選びたかったというよりは、苦労する先輩たちを見て、あぁはなりたくないもんだと、世阿弥に逃げたのです。
中世文学のゼミだったため、ほとんどの学生は「平家物語」をテーマに選びます。
これは、大変です。
なんたって、琵琶法師たちが謡って広めた文学ですから、全国で謳って歩くうちに、内容はどんどん変化してしまいます。このため、異本がたくさんあり、それらを比較検討するところから始めなくてはなりません。
メイクばっちり、ボディコン(当時の主流ファッションでした)にハイヒール姿の先輩が、眉間に皺を寄せて、何種類もある、漢字ばかりの「平家物語」を苦労しながら読んでいる姿は、シュール過ぎて、笑えました。
無理だと早々に決断した私は、同じ中世時代に活躍した、世阿弥に逃げました。
たまたま見つけた論文で、世阿弥作品は現代の映画的手法を使っているとの指摘をしていたので、それに乗っかることにしました。
ゼミの担当教授からは、「なかなか面白い視点ですね」などと言われ、「そうですか、へへへ」と笑ってごまかし、無事「平家物語」から逃げることに成功しました。

 ある日、世阿弥をテーマにした学生のために、授業時間を使って、世阿弥作品の能を鑑賞しに行きましょうと、教授が言い出しました。これはつまり、私のためにということです。私以外に、世阿弥を卒論テーマに選んだ学生はいませんでしたから。

翌週、教授に引率され、ゼミの学生たち、二十人ほどで、能楽堂へ向かいました。
歌舞伎座や帝国劇場や、様々な劇場に子どもの頃から行っていたので、劇場がもっている独特の雰囲気には慣れていたつもりでしたが、千駄ヶ谷の国立能楽堂の佇まいには、完全に呑まれてしまいました。初めて体感する、その厳粛さに、身が引き締まるような心持ちがしました。
その気持ちを持続できれば良かったのですが、緊張中であっても、睡魔はやって来るから不思議です。
能は静かに、独特のスピードで進行していきます。現代人の速度と較べれば、明らかにゆっくりです。
糸を巻くのに、どんだけ時間かけてんねんと、心の中でつっこんだ記憶を最後に、睡魔に支配されてしまいました。
隣席の子に、「終わったよ」と起こされた時には、すでに客席は明るくなっていました。
ふと、振り返ると、険しい顔をした教授と目が合いました。
目を三角にした教授は「君のために、大事な授業の時間を鑑賞にあてたというのに、一番に寝るとは、どういうことですか」と、怒りだしました。
面目ない。
私は能楽堂で、うな垂れるしかありませんでした。 

その時のトラウマでしょうか。
その後、能楽堂へは足が向かなくなってしまいました。
十五年後、能楽堂を訪れる機会がありました。
厳粛さは、記憶にあった、当時のままでした。
少し違うといえば、これから始まる能への期待感を、自分がもっていることでした。
そして、能は静かに始まり、静かに終わりました。
私は睡魔に襲われることなく、最後まで堪能することができました。
以前のような、「展開が遅いんですけど」といった違和感はなく、ゆっくりしたスピードが妙に心地良く思えました。
帰り道、どうして、昔は、あの速度に馴染めなかったのだろうと考えました――。
若かったからなぁ。

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