ハウスものでしょう。
夏まっさかりのこの時期に、ミカンを手に入れました。
大変甘くて、美味しかったです。
以前、ある小説の中で、主人公が新幹線に乗るシーンを書きました。その季節は夏でした。
「車内にミカンの匂いが広がった」と書いたところ、校正者から、「ミカン」の前に、「夏」という文字が抜けているのではといった、指摘がありました。
私はその指摘を却下し、「ミカン」のままでと差し戻しました。
原稿は数回にわたって、私はもちろん、編集者や校正者といった複数の人たちで、チェックをします。
二度目のチェックの時、別の校正者から、まったく同じ指摘がありました。「ミカン」の前に「夏」という文字が抜けているのではと。
原稿に書かれた、その校正者の文字の横に、私は書き始めました。
これは、冷凍ミカンなので、年中食べるもので・・・と書いたところで、手が止まりました。
もしかすると、冷凍ミカンは、今、ないのかもしれないと、気が付きました。
ネットで調べてみると、ごく一部の駅などで売られてはいるようですが、あまりポピュラーな食べ物ではなくなっていました。
おやおや。
隔世の感に、ため息です。
私が子どもの頃は、列車の移動中には、駅弁を食べて、お茶を飲んで、デザートは冷凍ミカンというのが、定番でした。
キオスクなどで、赤いネット状の袋に4~5個程度の冷凍ミカンが入れられたものが売られていました。ミカンをただ冷凍しただけのものでしたが、それだけで旅の途中という感じがして、テンションが上がりました。列車内に座っていれば、必ずといっていいほど、冷凍ミカンの匂いが漂ってきたものでした。
全部を食べ切れず、残ってしまった冷凍ミカンは、ハンカチかなんかで包んでバッグの中に入れておきます。旅先で、あるいは旅館についてから、すっかり解凍して、ただのミカンとなったものを食べるという経験も何度もありました。
旅の思い出の隅っこには、必ずといっていいほど冷凍ミカンがあったものでしたが、どうやら、いつの間にか、定番の玉座からは降りていたようです。
そう言えば、私自身も、最後に冷凍ミカンを買ったのは、いつだったかと考えると、もう記憶を辿ることすらできません。
さてさて、校正者の指摘通りに、「夏ミカン」とするかという点に話は戻ります。
車内で夏ミカンを食べるという人も、いらっしゃるとは思いますが、その重さ、嵩を考えると、それはなかなか勇気のある行動です。
ここは、「ミカン」としておいて、「冷凍ミカン」を想像していただいてもいいし、ハウス栽培の普通の「ミカン」を想像していただいてもいいようにしておこうという結論に至りました。
さらっと読み飛ばされてしまうような細部にも、こんな風に、あーだこーだと意見を出し、決めていくという地道な作業を何度も重ねて、小説は完成していきます。
100円ショップで購入したピーラーが壊れたので、新しい物を買いました。
800円でしたから、前の物より8倍の価格でした。
使ってみて、びっくり。
なんなんだ、この切れ味の鋭さは。
1度野菜にあてて、すっと引けば、きれいに皮が剥けていきます。
当たり前っちゃ、当たり前の話なのですが、こうして気持ちいい切れ味を目の当たりにすると、今まで使っていた物がどんだけ、切れ味が鈍かったかということに気付くのです。
100円ショップで購入した物は、たいてい途中でつっかかってしまい、刃が動かなくなります。動かなくなると、一旦刃を野菜から離して、途中までの皮を手でひんむき、再度引っ掛かったところから、やり直します。これを何度も繰り返すという、なかなか根気のいる作業になっていました。
それが、新しいピーラーでは、「すー」っと、野菜の先端まで、一気にいけるのです。
思わず、「おぉ」と感動の声を上げてしまいました。
これは、商品そのものの問題ではなく、長いこと使っていたために、刃が摩耗していたせいに思えます。
研いだりしませんでしたしね。
ピーラーが壊れて、新しい物を買うまでの3日間。
野菜を包丁で剥いたのですが、これが、まぁ、面倒なこと。
大根なんかは太いので、まだいいのですが、こぶりのニンジンなんか、剥いているうちに、さらに小さくなってしまって、苦労した割に食べる量が少なくて。
こうなってみて、ピーラーが発明される前の大変さに気付かされました。
全部の野菜を包丁1本で、剥いてたんだなぁと、過去の苦労に感心してしまいます。
つくづく思いましたが、ピーラーって、大発明ですね。
誰かが特許を取っているのでしょうか。
今は、発明した人に、感謝の気持ちでいっぱいです。
昔々のことですが、初めて買った車は、マニュアルの重ステでした。
当時の私は、車を運転するというのは、力仕事だと思っていました。
数年後に、オートマのパワステの車に乗り換えた時、その便利さと楽ちんさに心が震えました。
その時、オートマとパワステを発明した人に、心から感謝の気持ちを伝えたいと思いました。そのことを、ふと、思い出しました。
ノートパソコンを購入しました。
黒いノートパソコンは、ちょっとデキる人っぽい?
通常はデスクトップ型のパソコンを使用しているので、ノートパソコンは緊急事態のための予備です。
今使用しているデスクトップ型のパソコンは、まだ1度も故障していないのですが、これの前に使っていたパソコンが、まぁ、壊れたのなんのって。
3年の間に、7回故障して、そのうち3回はマザーボードを取り換えるという根こそぎ治療が必要だったほどでして。
故障した場合、メーカーの修理センターに送るか、修理スタッフに来てもらうかのどちらかを選ぶことになります。メーカーに送った場合、直って戻って来るまで、早くても2週間かかります。
2週間、待てますか? 仕事が2週間もストップしたら、大変なことになるっちゅうねん、ということで、当然、修理スタッフに来てもらう方を選択します。しかし、その日に駆けつけて来てくれる――といったことはありません。予約が埋まっているとかなんとか言われて、3日後ぐらいの約束を取り付けるだけ。
首を長くして待ち焦がれた末に、やっと来た修理スタッフが、2時間も、我が家でパソコンをいじった挙句、言った言葉が、「部品がないんで、取り寄せてから、また来ます」。
殺意を押さえるのが大変でした。
こうした出来事にも、やがて慣れてくる日が来ます。7回も故障していれば、メーカーのサポートセンターのオペレーターさんへ、用件を簡潔に伝えるのも上達していくもんですし、部品の在庫を抱えず、その都度、取り寄せるというシステムにも、腹が立たなくなっていきます。慣れって、凄い。
そして、こうした故障期間中にも、仕事をストップさせないよう、予備のノートパソコンを用意しておくようになりました。
感心したのは、やってくる修理スタッフに、「これ、不良品ですよね?」と私が確認する度に、全員が、「そうとは言えないんですよねぇ」と答えたこと。
不良品と認めてしまうと、後々面倒なことになるのか、修理にやって来た、7人のスタッフ全員が、絶対に「はい」とは言いませんでした。このスタッフ教育の徹底ぶりって、どうよ。
自動食器洗浄乾燥機や洗濯機、トイレなど、我が家では、いろんなものがよく故障するので、いろんなメーカーの修理スタッフがやってきますが、人によって、説明もサービスも様々です。人がやっていることですから、そうなるのがフツーにも思います。親切な人に当たれば、ラッキーとなります。ところが、パソコンのメーカーの修理スタッフたちは、「不良品」という言葉には、同じように断固とした拒絶反応を示します。よっぽどの、教育の徹底がなされているとしか思えません。
しかし、3年で7回故障したパソコンが、不良品でなかったとしたら・・・なんだったんでしょう?
最近観たDVDが、たまたま同じテーマを扱っていました。
Dearフランキー
『Dearフランキー』では、家族の中でつく「噓」が、『大いなる休暇』では、村全体でつく「噓」がテーマです。
大いなる休暇
どちらの映画にも、一つの噓をつき通すために、別の噓を重ねていかなくてはならなくて・・・といったストーリーになっています。
自分のためではなく、誰かのためにつく噓は、アリだと私は思います。
よく、「噓をつかない人が好き」とか、「噓だけはつかないで」と言う人がいますが、そうした言葉を耳にする度、本当に? と思っていました。
以前観た、映画の中で、ジム・キャリーが、突然、噓がつけなくなった人物を演じていました。彼の日常生活は大変になります。人間関係はボロボロになってしまいます。映画を通して、皆が日常の中で、たくさんの噓をついていることを、面白おかしく表現していました。
くすくす笑いながら、その映画を観ていましたが、実際に噓を絶対につかないと決めたら、恐らく私の人間関係も似たようなものになるだろうと想像して、ちょっと怖くなりました。
たいして美味しくないものでも、いただき物であったら「美味しい~」と言うし、新しい服だと思えば、「可愛い。どこの?」と興味もないのに尋ねるし、普段の仕事ぶりを評価していない人に対して、いい仕事をさせるがために「頼りにしてるわ~」と言っておだてたりしてますからね。そういうのを全部、口にできないとなったら・・・さぞかし人間関係はぎすぎすしたものになることでしょう。
必要な噓ってありますね、やっぱり。
相手を思い、優しい噓をつく。
そこから物語が始まる・・・そんな小説を書いてみたくなりました。