指圧

  • 2011年09月22日

月に一度、指圧店に行っています。
肩を中心に、首と肩甲骨までが、とても凝っていると訴え、揉んでもらいます。

その店は、カーテンで仕切られたブース内で、各自が指圧してもらうのですが、そのカーテンは薄い布製のため、その中で交わされる会話は、周囲に聞こえてしまいます。
私は大抵、黙っていて、ひたすら揉んでもらうのですが、カーテンの向こうからは、様々な会話が聞こえてきます。
嫁の悪口、上司への不満、夫との冷めた関係・・・といった、実に多種多様な話です。
指圧中に、よくそこまで、心の内を赤裸々に語れるものだと、感心してしまいます。ほかの客たちやスタッフたちに丸聞こえだと、わからないはずもないシチュエーションなので、聞かれてもいいのでしょう。もっと言えば、聞かせたいぐらいなのかもしれません。
もう一つ、感心するのは、その呼吸です。
指圧中に話をするのは、結構大変です。
身体をぐっと押されれば、その時、息が詰まるようになります。
指圧は身体のあちこちを押さえ続ける作業ですから、この息が詰まる感覚が、連続されることになります。
この息が詰まる中で、言葉を発し続けるというのは、なにか特別なテクが必要なのではないかと思われます。
私なんかは、近くにあるスーパーの場所を、指圧者に説明するだけでも、苦しくって、息が荒くなります。

 ある時、カーテン越しに聞こえてきたのは、恋の話でした。
どうやら、一年前に突然彼から別れを切り出され、別れることになったものの、どうしても忘れられず、よりを戻したいと願っている女性のようでした。
占いによれば、今週から「積極的に出ない方がいい時期」に入っているそうで、それで時間ができたので、指圧にやってきたという話でした。
先週までの「積極的に出てもいい時期」には、いったいどんなことをしたのかと尋ねる、指圧者の声が聞こえてきました。
すると・・・彼の部屋にこっそり入り(合鍵を返す前に、もう1つ合鍵を作っておいたらしい)、新しい女がいるのかどうか、今、どういう生活をしているのか、冷蔵庫を開けたり、ゴミ箱を漁って、調べたとのこと。
その調査によって、女はいないという判断を下したと語る声は溌剌としていて、息の乱れもありません。
怖くなった私は、無意識に身体を震わせたようで、「寒いですか?」と、指圧者から声をかけられてしまいました。
この話を検証してみると、カーテンの向こうにいる女性は、一年前の、別れることにした段階で、すでに合鍵のコピーを作っていたことになります。
その時点ですでに、彼の部屋への侵入を計画していたということです。
となると、別れる気、最初っからなかったってこと。
どういういきさつなのか、わかりませんが、占い師が「積極的に出ない方がいい時期」だと、すっと言い続けてくれますように。
この日、会得した教訓は・・・『合鍵を返してもらうより、鍵を交換しろ』ですかね。

世阿弥

  • 2011年09月19日

大学の卒論テーマに選んだ人物は、世阿弥でした。

 どうしてもこの人物を選びたかったというよりは、苦労する先輩たちを見て、あぁはなりたくないもんだと、世阿弥に逃げたのです。
中世文学のゼミだったため、ほとんどの学生は「平家物語」をテーマに選びます。
これは、大変です。
なんたって、琵琶法師たちが謡って広めた文学ですから、全国で謳って歩くうちに、内容はどんどん変化してしまいます。このため、異本がたくさんあり、それらを比較検討するところから始めなくてはなりません。
メイクばっちり、ボディコン(当時の主流ファッションでした)にハイヒール姿の先輩が、眉間に皺を寄せて、何種類もある、漢字ばかりの「平家物語」を苦労しながら読んでいる姿は、シュール過ぎて、笑えました。
無理だと早々に決断した私は、同じ中世時代に活躍した、世阿弥に逃げました。
たまたま見つけた論文で、世阿弥作品は現代の映画的手法を使っているとの指摘をしていたので、それに乗っかることにしました。
ゼミの担当教授からは、「なかなか面白い視点ですね」などと言われ、「そうですか、へへへ」と笑ってごまかし、無事「平家物語」から逃げることに成功しました。

 ある日、世阿弥をテーマにした学生のために、授業時間を使って、世阿弥作品の能を鑑賞しに行きましょうと、教授が言い出しました。これはつまり、私のためにということです。私以外に、世阿弥を卒論テーマに選んだ学生はいませんでしたから。

翌週、教授に引率され、ゼミの学生たち、二十人ほどで、能楽堂へ向かいました。
歌舞伎座や帝国劇場や、様々な劇場に子どもの頃から行っていたので、劇場がもっている独特の雰囲気には慣れていたつもりでしたが、千駄ヶ谷の国立能楽堂の佇まいには、完全に呑まれてしまいました。初めて体感する、その厳粛さに、身が引き締まるような心持ちがしました。
その気持ちを持続できれば良かったのですが、緊張中であっても、睡魔はやって来るから不思議です。
能は静かに、独特のスピードで進行していきます。現代人の速度と較べれば、明らかにゆっくりです。
糸を巻くのに、どんだけ時間かけてんねんと、心の中でつっこんだ記憶を最後に、睡魔に支配されてしまいました。
隣席の子に、「終わったよ」と起こされた時には、すでに客席は明るくなっていました。
ふと、振り返ると、険しい顔をした教授と目が合いました。
目を三角にした教授は「君のために、大事な授業の時間を鑑賞にあてたというのに、一番に寝るとは、どういうことですか」と、怒りだしました。
面目ない。
私は能楽堂で、うな垂れるしかありませんでした。 

その時のトラウマでしょうか。
その後、能楽堂へは足が向かなくなってしまいました。
十五年後、能楽堂を訪れる機会がありました。
厳粛さは、記憶にあった、当時のままでした。
少し違うといえば、これから始まる能への期待感を、自分がもっていることでした。
そして、能は静かに始まり、静かに終わりました。
私は睡魔に襲われることなく、最後まで堪能することができました。
以前のような、「展開が遅いんですけど」といった違和感はなく、ゆっくりしたスピードが妙に心地良く思えました。
帰り道、どうして、昔は、あの速度に馴染めなかったのだろうと考えました――。
若かったからなぁ。

扇風機

  • 2011年09月15日

今年の夏、大活躍した物といえば、小型扇風機。

高さ30センチちょっとの、ちっちゃな扇風機です。
節電の今夏、エアコンをなるべく使わないよう、この扇風機を使いまくっていました。
持ち運びが片手でできるほどの軽さなので、自宅内を移動する度、この扇風機も道連れします。
ひょいと持ち上げては、新たな場所に設置し、ブンブン風を送って貰っていました。
執筆中には仕事部屋で、料理中にはキッチンで、化粧中にはパウダールームで。
あまりに一緒に行動しているためか、今や身近な相棒といった存在です。
スマートフォンを購入した際、付いていたカメラ機能の試し撮りをしようと思った時には、当然のように、この扇風機にレンズを向けていました。記念すべき、ファーストショットが扇風機と相成りました。

 この扇風機は、もう6、7年使っています。
軽くて、とても重宝しているのですが、この相棒には1つ大きな欠点がありまして、動作音が、うるっさいのなんのって。
フローリングの床に置くと、ダダダダダッと、床を叩き続けるような音がします。しょうがないので、バスタオルを小さくたたみ、その上に、鎮座していただきます。すると、多少、動作音は小さくなりますが、それでも、結構耳につきます。
いつものボリュームでは、音楽も聞きづらくなるほどです。

 フル稼働させていた扇風機を、止める日がやってきます。
気温が上がらず、今日は動かさなくていいかなと思うような日。
扇風機を止めた途端に訪れる静寂――。
あぁ、今までの我が家には扇風機の音が溢れていたんだなぁと思う瞬間です。
そして、そうか、もう秋だなぁと、しみじみとします。
扇風機が作り出していた音から解放された時――それが、私が毎年、秋を感じる瞬間でもあります。

プチトマト

  • 2011年09月12日

今から十年ほど前のことです。
スーパーの特設会場で、足が止まったのは、『ベランダで野菜を育ててみませんか』と謳ったポップの前でした。
それまで、土いじりにまったく興味などなかったのに、何故か、その時は、ポップの言葉が、ズドンと胸の真ん中に突き刺さりました。
さて、なにを育ててみようかと、早速、選ぶことに。ニンジンやナスなどは、素人なりに、難しそうだと判断し、パスします。
そして、その時、目についたのが、バジルでした。種の入った袋の裏には、初心者向けとも書いてあります。パスタに摂れたてのバジルを使うなんて、ちょっとオシャレっぽくていいんじゃないかと、ほくそ笑みました。そして、ついでに、トマトも作れないだろうかと考えました。自分で育てたバジルとトマトで作ったパスタ。雑誌の中の世界のようです。よし、これでいこうと思い、種の入った袋を裏返しました。すると、上級者向けと書かれています。そ、そうか。トマトは難しいのかと、諦めかけた時、プチトマトの種に目がいきました。裏返した種の袋には、初心者向けの文字が。よっしゃ。プチトマトでいいや。口の中に入れれば、同じトマト味だと、自分の理論を展開し、購入しました。
自宅に戻り、早速、鉢に土を入れ、種を落とし、水をやりました。
そして、ベランダへ顔を向け、はっとしました。
このベランダで、食物が育つのだろうかと。
猫の額のような狭いベランダには、エアコンの室外機と、避難用の滑り台が収納されているボックスがあり、人が一人立つぐらいのスペースしかありません。そこに洗濯物を干すので、日差しは遮られてしまい、植物を育てられる環境ではなさそうだと気が付きました。
どうして、こういう大事なことを、買う前に考えられないのでしょう。
自分の間抜けっぷりに呆れます。
ですが、せっかく買ったのに、このまま捨てるのは惜しい気がします。
そこで、室内で育ててみることに。
窓の前にバジルとプチトマトの鉢を並べました。

一週間ほどで、プチトマトのちっちゃな葉が出てきました。
いける。
そう感じた私は、遅れて葉を出したバジルに、精一杯の愛情と水を与えました。
バジルはすくすくと育ち、レストランなどで見かける姿と遜色ない色と形になりました。

問題は、プチトマトの方でした。
愛情をかけなかった分、性格が歪んでしまったのか、ひょろひょろと茎が伸びるばかりで、一向に実をつけそうな気配はありません。茎の添え木は、継ぎ足しを繰り返して、30センチほどの高さになりました。
茎はあまりに細く、全精力を、上に伸びるという行為に振り向けているようでした。

それから一ヵ月。
プチトマトは、相変わらず、上に上にと、伸びていました。
その頃には、プチトマトを食べるという目標は忘れ、どこまで伸びていくものなのかと、記録に挑戦し続ける植物を見届けようという気持ちになっていました。
結局、70センチまで記録を伸ばした後、ぴたっと成長は止まり、やがて、色が薄くなっていきました。
そして、実をつけることはなく、徐々に枯れていきました。
窓からの日差しでは、充分ではなかったのか、それとも、プチトマトが生きる方向を間違えたのか、わかりません。
枯れたプチトマトを処分した時、ちょっと淋しかったことを、覚えています。

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