• 2012年11月19日

子どもの頃、本や新聞、雑誌などを跨いだり、足でちょいっとどけたりしようものなら、母の雷が落ちたもんでした。
「字・文章」を足蹴にするなど、もってのほかだというのです。
「字・文章」には、書いた人の魂が宿っているから、それを粗末に扱うことは、まかりならんというのが、母の言い分でした。
昔は、こういう教えがあったのでしょうか?
「字・文章」にまつわる仕事をしていたわけでもない母が、なぜ、印刷物にだけ、これだけ主義をもっていたのかは、よくわかりません。
今、小説を書く身になってみて、この言葉を大変奥深いと感じるのであって、当時は、なんだ、そりゃ、ぐらいに思っていました。

それだけ活字を大切にしている母が、生ゴミを捨てる時には、新聞紙に包んでからゴミ容器へ入れているのを見た時には、子どもながらに、「言ってることと、やってることが、違くない?」と感じたものでした。
ある日、生ゴミを新聞紙の上に置いた母に、それは、魂を汚すことにはならないのかと、尋ねました。
私から真っ直ぐ突っ込まれた母は、一瞬、言葉を失ったようにも見えましたが、すぐに「これだけは、許してくれることになっている」と反論しました。
「誰から許してもらってるの?」とさらに尋ねると、「新聞協会から」との答えが。
嘘のクオリティーが低すぎて、がっかりしたことを覚えています。
もう少し、ましな言い訳を考えてくれと、子どもながらにつっこんだもんでした。

今、文章を書いて、飯を食っている私としては、本、雑誌、新聞といった印刷物を足蹴にすることはありません。
魂を大切に扱うよう、心がけてはいますが、新聞や雑誌は、どんどん捨てていかないと部屋に溢れてしまいます。
そこで、週に1度の分別ゴミの収集日まで、引き出しに一旦ためておきます。
その引き出しに入れる際、字の向きには、こだわります。
引き出しを開けた時に、目に入る字の向きが、正面(普通に読める状態)だといいのですが、逆さまになっていたり、横向きになっていたりすると、どうも落ち着かないのです。
それで、字の向きに注意して、引き出しに仕舞うのです。
大雑把な性格の私にとって、この小さなこだわりは、非常に珍しく、自分でも、不思議だと思いながらも、止められません。
なんだか、人それぞれですね。

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