修学旅行で
- 2014年04月28日
中学校での修学旅行は、京都と奈良でした。
神社仏閣を巡る、それは有意義な修学旅行となるはずでしたが・・・。
修学旅行から帰ると、学校では早速感想文なるものを書かされます。
そこで、はたと困ります。
私は一体なんちゅう名前のお寺を見学したのだったっけか、と首を捻るのです。
学校に提出する感想文ですから、「チョー楽しかったー」といった程度のもので許されるわけもなく、真面目な感じでまとめなくてはいけないということは、出来の悪い私にもわかっていました。
そこで、今更ながら「しおり」を引っ張り出し、自分が行った名所の名前を確認。
が、ずらっと並ぶ神社仏閣の名前が、1つも心に響いてこない。
バスに揺られ、下ろされ、歩かされ、はい、神社。
歩いてバスに戻って、はい、着きました。
といった強行軍だったため、古びた建造物と庭があった、ぐらいのイメージとしてしか捉えていませんでした。
旅行中に撮った写真を眺めてみても、皆でピースサインをしまくっているショットばかりで、それがいったいどこの場所で撮ったものなのかは不明。
友人らと交わした会話は細かいことまで覚えているのに、なにを見たのか、どこへ行ったのかはまるで記憶なし。
深夜まで続いたお喋りについてを、感想文の中に入れることはできませんから、書ける内容がとても少ない。
しょうがないので、決められた枚数をクリアするために、「したがって」「これはつまり」といった接続詞を多用した、やたら改行する感想文になりました。
それが、いつの頃からでしょうか。
神社仏閣の魅力がわかるようになってきました。
味わい方がわかったようなのです。
中学生の頃には同じようにしか見えなかったものの違いや、趣きの妙に気付けるようになったのは、30代半ばぐらいになってから。
私の場合、理解できるようになるまでに、それぐらいの時間が掛かってしまいました。
先日、京都へ行った時、修学旅行中らしき中学生たちを見掛けました。
ガイドさんの話を熱心に聞きながら、小さなノートになにやら書き付けている姿は、とても真面目。
あぁ、これが真っ当な修学旅行なんだなと思いました。
きっとこの子たちは、後になって、自分がどこへ行ったのか思い出せない、なんてことはないでしょうし、ちゃんとした感想文を書くことでしょう。
さらに、これらの神社仏閣の魅力をすでに理解しているかもしれません。
私のように時間を無駄にしていない様子に、少しジェラシーを感じました。