プレゼントをいただくのは、それがどんな品であっても嬉しいものです。
うっそ、最悪のセンス。
などと心の中で思ったとしても、その心遣いには感謝しています。ちゃんと。
花のプレゼントは、王道中の王道ですが、これ、間違いありませんね。
いただくと、一気に心が華やぐような喜びがあります。
これはいただいた花のアレンジメント。
大好きなガーベラが主役の可愛いアレンジメントです。
気の置けない友人などからも貰い物をすることが多いのですが、そうした場合は、生活に密着したものがほとんどです。
今ハマっているというゼリーや、会社の保険組合から購入したことで安かったという胃薬や、倒産した会社からタダで貰ったという旅行用のスリッパなど。
その品自体、物語を背負っているんじゃないかというような経路を辿って、私の元に集まってきます。
そんな品の行く先々の物語を書いてみたら面白いのではないかと、思ったりもします。
以前、歌舞伎座に行った時のこと。
幕が開くのを待ちながら、座席で友人と喋っていると、とんとんと腕を軽く叩かれました。
右の座席に顔を向けると、アダルティな女性がミカンを差し出しています。
「?」という顔をしている私に「お友達が家からミカンを持ってきたんだけど、私もミカンを持って来ていて、重なっちゃって。持って帰るっていうのもなんだから、よかったら、どお?」と言ってきました。
私が事態に即応できず固まっている間にも、アダルティな女性は小花柄のビニール製のバッグからどんどんミカンを取り出し始めます。
なんとなく受け取ってしまった私の両手に大量のミカンが。
困っていると「お隣に送って」との指示が。
あぁ、そうか。と納得し、隣の友人にミカンを渡します。
友人はなんの躊躇いも見せず、私から送られてくるミカンを、隣の見ず知らずの人たちへとバケツリレーを始めました。
結局、8個のミカンが、8人の客に行きわたりました。
遠くから「ご馳走さまでーす」との声が聞こえてきて、アダルティな女性は片手を上げて答えます。
っていうか、家から8個もミカンを持ってきたのかよっとのツッコミが頭に浮かんだのはしばらく経ってからのこと。
一斉に8人がミカンの皮を剥き出し、さらにアダルティな女性の連れと思われる4人もミカンを食べ出したため、その列からミカンの匂いが大量に放出。
幕が開き、1回目の休憩時間になったので、座席でお弁当を食べ始めると・・・さっきとは逆方向から、なにかが送られてきます。
見ると、きんつば。
ミカンのお礼と思われます。
私が隣のアダルティな女性に渡すと、「あらぁ。ミカンできんつばが釣れたわ」などとお決まりのひと言。
が、このきんつばは1個じゃなかった。
次から次に送られてきます。
家から持ってきたんだか、売店で買ったんだかわかりませんが、結局、先ほどミカンを食べた人たち全員に、きんつばが行き渡りました。
結局私と友人は、有り難くミカンだけでなく、きんつばまでいただきました。
こんな予想外のプレゼントをいただくのも、ちょっと可笑しくて、楽しいものですね。
数年前のことだったと思います。
テレビで盆栽がヨーロッパで人気だという報道がされていました。
海外では「BONSAI」と呼ばれ、その輸出額は景気の影響を受けてアップダウンはあるものの、おおむね右肩上がりで推移しているとか。
日本文化の輸出はアニメだけじゃなかったのかと、びっくりした記憶があります。
その番組ではイタリアで開かれたという盆栽イベントの模様も紹介されました。
大変な賑わいで、盛り上がっている様子が窺えます。
日本人が講師となり、実際に盆栽の植え替えをレクチャーする会場では、ずらりとダンディな男たちが並んでいます。
講師が盆栽の作り方を実際にやってみせると・・・伊達男たちの目は真ん丸に。
驚きから好奇心へ、やがて感動へと変わっていく様子が、その表情からは感じられ、なんだか微笑ましく思えるほど。
この時のことが私の記憶のどこかにインプットされていたのでしょうか。
新作「エデンの果ての家」のプロットを作成中、主人公の仕事をなににしようかとあれこれ考えている時、盆栽の仕事にしたらどうかと思い付きました。
そこで、本や雑誌を買い集め、勉強を始めます。
すると、なんちゅう奥の深さ。
盆栽が表しているのは、宇宙であったり、壮大な自然だったりすると知りました。
びっくり仰天です。
こういうのは勉強してみないと想像もつかないものです。
さらに究極のミニマムの美の追求と、一期一会を大切にする日本人の感覚があわさった、独自の世界観をもっているということも学びました。
新作を書くにあたって、様々な準備をするのですが、その調査段階で新しい世界を知ることが往々にしてあります。
それは楽しく、また刺激的でもあって、つい夢中になって取材を続けるあまり、一向に新作に手を付けられない・・・といった困った状況にもなるのですが。
こういう資料を読んでいて面白いのは、専門雑誌。
それを趣味や仕事としている人たち向けの専門雑誌は、大抵存在していて、これが面白い。
特集記事を読むのも、ちんぷんかんぷんながら面白いのですが、なんといっても外せないのは、広告ページ。
お金を払って広告を載せているからには、読者に向けて売りたいものや告知したいことがある。
こうした広告ページを隅から隅まで見ていくだけで、様々なことを教えてくれます。
鉢が数百円から数百万と、価格幅が半端じゃないこととか、皐月(さつき)を育てるのに悩んでいる人が多いようだとか、正確な天気予報を望んでいる人がいるようだとか、そういったことは、愛好家たちが読む専門雑誌からしか取れない情報。
さらに読者からの質問や悩みを受け付けるページなんかは、そのまま小説に使いたくなるほど面白いネタが揃っています。
読者が参加できるイベント情報ページも、チェック。
愛好家たちが、今なにを望んでいるのかがわかります。
こうした専門雑誌や専門書を読み込み、頭に入れてから、プロットを作成し執筆に入ります。
新作「エデンの果ての家」でもそうでした。
主人公と父親のすれ違いを、盆栽の仕事に誇りをもつ主人公と、それをまったく理解しない父親という表現で描こうとしたものです。
興味のある方は、本をお買い求めください。
我が家のトイレの手洗い器はメチャメチャ小さい。
普通より小さい私の手であっても、どこにもぶつけずに洗い終わることはできないぐらい。
男性であれば、間違いなく洗ってるんだか、ぶつけてるんだかわからない状態に。
しかも、石鹸を置く場所がない。
手洗い器の周囲に平らなスペースはまったくないのです。
これをデザインした方は、誰を基準にこういったものを作ったのかと、毎日毎日首を捻っています。
しかも、手洗い器は小さいのに、その前にある鏡はやけにデカい。
トイレで全身が映るほどの大きさの鏡が必要なケースが思い浮かばないのですが、それは私だけでしょうか?
しょうがないので石鹸は、吸盤付きのトレーを鏡に付けて、そこに置いています。
が、これも大変でして。
元々小さい手洗い器の上部に吸盤付きのトレーがあるので、石鹸を取る時や、水で洗い流している時に、このトレーに手をぶつけしまうのです。
それじゃ、手洗い器から距離を外して、鏡の高い位置に吸盤を付ければいいかというと、それも変。
手洗い器は小さいのに、その右側にはやけに広いコーナーがあります
ここに棚でも置いて、そこに石鹸を置きゃあいいだろという考え方でのデザインだったのでしょうか?
が、そこに棚を置き、石鹸を置いたとすると、濡れた石鹸が20センチほどの距離を行ったり来たりしますから、その間の床に水滴などの汚れが落ちるのを覚悟しなくてはならないでしょう。
いいのか、それで?
との思いがあり、何年もの間、手洗い器に手をぶつける毎日を過ごしていました。
ある日のこと。
テレビコマーシャルで、手をかざしただけで、洗剤が泡状態で出てくる物があることを知りました。
それはノータッチ泡ハンドソープ自動ディスペンサーなるもの。
これなら、液体石鹸や固形石鹸とは違い、手洗いボウルまで距離があっても、床が汚れることもない。
これだったかと、早速ノータッチ泡ハンドソープ自動ディスペンサーと棚を購入し、トイレのコーナーに設置。
それが、こちらです。
石鹸トレーがなくなった分、洗い易くなりましたし、泡で出てくるので、しっかり洗えているような手応えも得られます。
ただ、泡がでてくる時の音が、雀のオナラみたいな音で、笑えます。
使い始めの頃は、この音ってどうかなと思っていたのですが、人というのは慣れるもんですね。
今では、笑うことなく、この音を受け止めています。
新刊「エデンの果ての家」が発売になります。
11日か12日ぐらいから書店に並び始める予定です。
どうでしょう。この装丁。
翻訳本っぽいといった感想を多くいただいています。
蛍光色を使っているので、ポップな印象を与えます。
一方で右に建つ塀の黒くザラザラした触感が、不安定さを作り出しています。
このバランスが絶妙で、物語がすでに始まっていますよと声をかけられたような気がして、思わず手に取って、レジへと運んでいた・・・なんてことになるんじゃないかと期待させてくれる装幀です。
装幀はとても大事で、だからこそ、編集者は知恵を絞り、アイデアを出し、苦しみます。
そして何度もデザイナーさんと打ち合わせをし、いくつか絞り込んだうえで、私に提案をしてくださいます。
今回もいくつかの案を見せていただき、仕事場のテーブルにずらりと並べました。
これが迷う。
好きか嫌いかなら、すぐに判定できます。
が、装幀のデザインとなると・・・自分の好みで判定することはできません。
目立ちたい。
書店の平場に新刊がずらっと並んだ時、私の本を目立たせたいのです。
が、これが簡単じゃない。
派手な色や書名を大きくすれば目立つというものじゃないんですね。
皆考えることは同じなので、派手な色使いの装幀ばかりになると、却ってシンプルな装幀の方が目立ったりすることもある。
だとすると、期待感を抱かせるような装幀の方がいいのでは。
それってどんな装幀よ?
と、答えのない疑問がどんどん出てきて、結局どんな装幀にしたらいいのかわからなくなり、ラビリンスへ。
そんな時、小説の雰囲気に近いイメージのものにしたらどうかとの考えが浮かんだりもします。
ですが、小説とまったく違う装幀でも趣きのある装幀だと、ぴたっとはまることもあって、内容と近いかどうかは、それほど重要ではないということを思い出したりして、さらに悩みは深くなっていきます。
今回も出口の見えない状態になった時「ちょっと休憩しましょうか?」と編集者に声を掛けられ、お茶を飲みながらよもやま話などをしてブレイクタイム。
少し時間を置いてから、今一度デザイン案を見ていきます。
と、「あぁ、やっぱりこれかな」という思いがさっきより強くなっているものが。
そうやって決めたのが、この装幀です。
お気に入りの装幀になりました。