キッチンにルーペを用意しています。
フードアレルギーがある私は、原材料名等をチェックしなければなりません。
大抵そういった表示の文字は小さいので、ルーペが必要なのです。
フードアレルギーが判明したのが昨年だったので、まだまだアレルギニストとしては初心者。
残念ながら知識がない。
なので、毎日驚きの連続だったりする。
たとえば・・・長年使っているウスターソースの裏書きを見たら、原材料に野菜としか書いてない。
野菜が入っているってことにも結構な驚きなのですが、ざっくりした表記にもびっくりです。
私はインゲンにアレルギーがあるので、その野菜の中にインゲンが入っているかはとても重要な情報なのですが、それがわからない。
表には野菜の絵が描かれているシールが貼ってあります。
その絵の中にインゲンらしき姿はありません。
が、だからといって、そのウスターソースにインゲンが入っていないとは言い切れない。
残念至極。
子どもの頃からカレーといったらこれを使うというほど、昔から愛用していたカレールー。
原材料名の蘭に牛乳の文字を発見。
げっ。
こんなところに入っていやがるぜぃと、舌打ちです。
長いことこのカレールーで作ったカレーライスを食べてきましたが、牛乳の存在を感じたことはありませんでした。
ってことは、私は国民食であるカレーライスをもう食せないのかと一気に不安になりました。
が、ネットで探すと、アレルギニスト向けのカレールーは売られているので、高い価格について目を瞑れば今後も食べられると知りました。
アレルギーの子どもをもったママたちは大変です。
フツーにお弁当や食事を作るのだって大変なのに、食材に制限があるとなるとウルトラ大変でしょう。
最近ではデザインのセンスや、手先の器用さが問われるような完成度の高いお弁当を作る人が多いようです。
実際のところ、そこまで力を入れているママがどれだけいるか数字はわかりませんが、ブログにアップされているお弁当の画像はとってもたくさんありますね。
最新刊「僕とおじさんの朝ごはん」では、母親が息子の特別な日のためにお弁当作りの勉強をするシーンがあります。
ケータリング業をしているおじさんに教えを請うため、仕事場のキッチンへ母親が習いに行くのです。
ですが、おじさんはぐうたらなので、プロがやりそうなシチメンドー臭い作り方を伝授したりはしません。
フライパンで主菜と付け合せの野菜を一緒に茹でてしまうなどという、簡単に済ませられるアイデアばかり。
前のめりになっている母親からすると物足りないものだったかもしれませんが、なるほどと納得するアイデアもあったりして感心もします。
そこでおじさんと母親はちょっとだけ心の距離を縮めます。
食には心の距離を縮める力があると私は思っているのですが、皆さんはどう思いますか?
雨の日は好きですか?
髪が広がるから大嫌いという友人がいます。
どうやってもまとまらないからと言うのですが、彼女の晴れの日の状態との違いが私にはわかりません。
私はどうかというと、雨の日は結構好きです。
いつもより一段階トーンダウンしたような感じは、落ち着ける気がするから。
が、これは室内にいる場合のこと。
出先で突然雨に降られてしまったなんてことになると、話は違ってきます。
買ったばかりのヌバックの靴なんか履いていた日にゃ、天に向かって呪いの言葉を吐いてしまいます。
小説の中で雨のシーンを時折登場させてきました。
「エデンの果ての家」では、嵐の中を歩く父親を、室内にいる息子が見つめるシーンを書きました。
いる状況の違いを書くことで、二人の遠い距離感を描けたらとの思いからでした。
最新刊「僕とおじさんの朝ごはん」では、おじさんが山を仰いでいる時、雨が降ってくるというシーンがあります。
それを潮に元の場所に戻り出すのですが、段々激しくなっていく雨足の中、急ぎ足になるおじさんを描きました。
おじさんを取り巻く孤独感が、日常的なもでのあることを窺わせるシーンになっていれば成功なのですが、どうでしょう。
このおじさんは高校生の時の親友から、雨にまつわるエピソードを聞いたことを思い出します。
それを真似した自分の過去の記憶も一緒に蘇ります。
大人になってみると、くっだらねぇと笑える出来事も、若い頃は真剣だったりするんですよね。
時間の経過と若い頃の単純さを描きたくて書いたシーンです。
男性の中には傘を差すのが嫌いとか、傘を差したくないとのポリシーをもっている人がいますね。
どれくらいの確率で存在する人なのかわからないのですが、私の周りには結構います。
並んで歩いていて雨が降ってきた時、私が傘を差しだすと「いえ、大丈夫です」と言うのです。
いや、大丈夫じゃないでしょ。雨降ってるし、あなた濡れてるから。
と思うのですが、頑なに拒否する。
「でも、濡れちゃうから」と私も意固地になって、なおも傘を差し掛けると「傘、あんまり得意じゃないんで」などと言う。
得意とか不得意とかのジャンルの話じゃないってと、若い頃の私はそれでもしつこく「風邪、引くよ」などと言って傘を差し掛けようと挑戦し続けました。
あまりに拒否されるうち、私と1本の傘の中に入ることは恥になるんかい? と絡みたくなることもありました。
が、最近では「なんと、お前も、傘差し掛けられたくない派かい」と心の中で思うぐらいで、「あっそ」とすぐに傘を引っ込めて自分だけが入ります。
年齢と経験が、こういう変化を私にもたらせるんでしょうね。
最近では「立派な武士のようですな」とコメントするぐらいの人間になりました。
さらに「拙者、傘は差しませぬってか?」と武士風のセリフを言って、からかうぐらいの大人になりました。
単行本の新刊「僕とおじさんの朝ごはん」が発売になります。
2月24日か25日頃から書店に並び始める予定です。
とても美味しそうな朝食がテーブルに並ぶ装幀になりました。
爽やかな印象で、物語の入口へそっと誘うような素敵な装幀にしていただき、関係者の皆様に感謝です。
日本人はネコと食べ物の画像ばかりアップすると、海外の人は感じているとどこかで聞いたことがあります。
そうかもしれません。
確かにネコと食べ物の画像はたくさん目にしますね。
海外の映画や小説などを見たり読んだりすると、いつも感じるのは、食事というものを割と軽く扱っているなという点。
雑なんですね。
どう料理するかとか、どう食べるかといったことに重きが置かれていないし、意味をもたせない。
それに比べて日本の映画や小説では、その登場人物の個性や育った環境を表すために、食事のシーンをよく使います。
日本では人生の中で、食事が重要だと捉えていることがわかります。
それじゃ、私はどうかといいますと・・・いかに簡単に済まそうかといった方向へズンズンと進んでいます。
が、友人らが我が家に集まるような時には丁寧に料理をします。
あくを抜いたり、角を取ったりといった普段は絶対やらないことを一生懸命します。
料理をしている段階から、おもてなしが始まっているのでしょう。
食べさせる人のことを思い浮かべながら、手を抜かず、ちゃんと作ります。
これ、なんだか人生をどう生きるかということに繋がりそうですね。
手を抜かずにきちんとする。
簡単なようでいて、難しいですよ、これ。
こうした毎日の積み重ねが、人生を豊かにしていく近道のような気がします。
「僕とおじさんの朝ごはん」では、ケータリング仕事をしているおじさんが登場します。
仕事が仕事ですから、当然料理のシーンがたくさん出てきて・・・とはなっていません。
ぐうたらなんです、このおじさん。
いかに手を抜き、そうは見えないようにするかに心を配る男。
このおじさんがどうなっていくかは、小説の中でのお楽しみ。
おじさん以外にも、食に関するエピソードをもつ人たちが登場します。
そうしたエピソードは、食べ物に思い出や気持ちが加わり、特別なものとなっているのです。
興味をもたれた方は、ぜひ本をお買い求めください。
小説のアイデアはどこから?
よくいただく質問です。
ケースバイケースなんですね。
たとえば「週末は家族」の場合は・・・実は別のアイデアがあり、それを編集者に話していました。
それは2つの家族の物語で、期間限定で1つの家に住むことになり、そこでそれぞれがもっていたルールと価値観がぶつかり合うといったもの。
が、どうも編集者は気乗りしない様子。
なんでも、まったく同じではないものの雰囲気が近い作品をつい最近発行した。評判はとても良かったが、売り上げ面では厳しかった、とのこと。
そう言われてしまうと「いや」とか「でも」なんて言葉は私からは出しにくい。
しょうがないのでパラパラとネタ帳を捲ります。
日頃から使えそうなアイデアを、ネタ帳に書いてあるのです。
それはアイデアなんて呼んでいいのか躊躇う程度の、ちょっとしたひと言程度なんですが。
そのネタ帳の中に「週末だけ里親になる制度」という言葉を見つけました。
以前新聞でこの制度の記事を読み、心に引っかかって書き留めていたのです。
編集者に話してみると、さっきと比べて明らかに食いつきがいい。
作家は書きたい作品を書いていると思っているあなた、それは間違いです。
作家は自身ですんごいアイデアだぜと思っていても、編集者がOKを出してくれないと、日の目は見ないんですね。
作品を発表できない。
編集者が「それ、いいですね」「面白そうですね」と言ってくれない限り、作家は書き始めることさえできないのです。
で、こっちのアイデアには編集者が興味をもっている手応えを感じた私は、もてる力を最大限使って、これでもかとばかりにアイデアを膨らませていきます。
精一杯のプレゼン。
そうして「GO」の指令を受けて書き始め、完成したのが「週末は家族」です。
苦し紛れのアイデアというケースもあります。
編集者から「恋愛ものを書いてください」と言われました。
思わず私は自分の鼻を指差して「私に言ってますか?」と確認してしいました。
こういう提案は生まれて初めてで、誰かほかの作家と間違えているのではと思ったのです。
が、編集者はいたって真面目な顔で「はい」と答えます。
うーんと首を捻る私に、「広い意味で解釈していただいて」とか「男女間でなくても、人類愛的なものでも」とどんどん範囲を広げていってくれます。
だったらなんでもいいんじゃんとのツッコミは心の中だけで。
私は「考えておきます」と答え、その日は終了。
こういうのはよくあるケース。
執筆の依頼を頂戴した時、それじゃ明日からとはならないもの。
今現在執筆しているものが終われば、次の約束をしている出版社の執筆に取り掛かるといったスケジュールがすでに決まっているので、書き始めるのは先の話。
「それではその頃にまた」と言って、二度と連絡してこない編集者は数知れず。
異動してしまったり、私に興味をなくしたりといった様々な理由で、それっきり連絡してこないという人はとても多いのです。
今回もそういうことになるかもしれないしな、なんて自分に都合よく考えて、「恋愛ものを」という依頼のことは忘却の彼方に。
が、そうはいかなかった。
半年ほど経った頃「また仕事場に行ってもいいですか?」と件の編集者から連絡が。
やっべぇよ、半年も時間があったのに、まったくアイデアを練っていませんでしたとは言えないでしょ、大人として。というか、プロの作家として。
といった気持ちになりまして、その編集者が来るという日の前日に、ううーと唸りながら捻り出したアイデアが、恋愛の神様がいるって設定はどう? というものでした。
一笑に付されて撃沈するかもしれないと思いながらも、翌日来た編集者にアイデアを告げると、「おっ、面白そうですね」とのリアクションが。
胸を撫で下ろしながら、そうは悟られないように注意してアイデアを膨らませていきます。
話しているうちに、物語の骨格が出来ていく手応えを感じていきます。
こうして完成したのが「恋愛検定」です。
どちらも文庫と電子書籍で読むことができますので、未読の方はぜひどうぞ。