11月24日に新刊が発売になります。
51歳の女性が主人公。
訳ありの女の過去が明らかになっていくにつれ、彼女の過酷な人生が浮かび上がってくる・・・そんな風に描きました。
これ以上は語れない。
ネタバレにいつも以上に要注意の小説なのです。
このようにネタバレに注意しなければいけない小説を告知するのは、とっても大変。
詳しいことは話せないけど読んでねと、無茶苦茶なお願いをするしかないから。
そんなんじゃ、全然わからなくて、興味をもてないというお言葉を頂戴しそうなので、もう少し説明をすると・・・主人公の女性は孤独を受けて入れている人です。
抗わない。
孤独な生活に慣れてしまっていて、寂しいとも思わなくなっています。
そんなひっそりと生きている彼女に、変化が訪れます。
ダメ。
もうこれ以上は言えない。
これぐらいで勘弁してください。
興味をもたれた方は発売の日まで今しばらくお待ちの上、お買い上げを。
なお地域によって発売日は前後します。
電子書籍版は11月24日に配信開始になります。
小説をどういった形態で読みますか?
こんな問いを投げかけるほど、電子書籍で読む人が増えてきたようです。
私は紙で読みます。
どうも光っているところにある字を読むと、目が疲れてしまうのです。
ブルーライトをカットするという眼鏡を掛けても、目の疲れは軽減しません。
パソコン画面を一日中見ていることもあり、せめて読書の時には、目に負担を掛けないようにしたいのです。
先月、執筆をしていたら、パソコン画面に白い丸が1つ出てきました。
目を動かすとこの白い丸も動く。
だからパソコン画面がおかしいのではなく、私の目の方に問題があると推測。
片目を隠してチェックしみると、この白い丸は右目で見えていて、左目では見えないと判明。
が、しばらくすると白い丸は消えました。
なんだったんだろうと思い、眼科クリニックを受診。
検査して貰ったところ飛蚊症との診断が。
年を重ねると肌にシミが出来るように、目の中にもシミのようなものが出来る。
それが白い丸に見えているという。
加齢のせいでした。
1つ見えるといった程度であれば、治療は必要ないとドクター。
また「そのうち慣れますから」とも言いました。
慣れるですって?
慣れる気は全然しなかったのですが「そうですか」と納得したような演技をして、クリニックを後にしました。
それから1ヵ月ほどが経過。
ドクターが言っていたように慣れてきました。
まぁ、1つぐらいなら。
でもこれから先、目の中のシミが増える可能性もあるでしょうから心配です。
皆さんも目を大切に。
そしてお好みの形態で、私の新刊を読んでくださいね。
最近ハマっているドラマがあります。
それは「ブラウン神父」。
定額制ビデオ・オン・デマンド・サービスの、会員になっている私。
そこのサイトでなにを観ようかとウロウロしていた時に、たまたま見つけた作品です。
概要欄には神父が難事件を次々に解決していくと書いてあり、海外ドラマのこのジャンルが好きな私は、観てみることに。
イギリスの田舎にある、小さな村がブラウン神父の教区。
この小さな村でやたらと殺人事件が起きる。
これをブラウン神父が解決していきます。
犯人を見つける方法や、見つけた後の始末の付け方が、ちと甘い。
というか、緩い。
観始めてしまったから、シーズン1はすべて観るにしても、シーズン2を観ることはないだろうと予想。
が、観続けているうちに、この緩さが快適なことに気付く。
ブラウン神父が凶悪犯に捕まって、命が脅かされそうになっても、全然緊迫したシーンにならない。
ブラウン神父は絶対に死なないし、怪我さえしないで事件は解決するというパターンが出来上がっているので、鑑賞中心は穏やか。
ブラウン神父が次々に事件を解決しているのに、それを刑事が気に入らず、とかく神父の邪魔をするという設定もありがちで、見飽きているはずなのに、心地いい。
2人のやり取りは、まるでベテランの漫才のように円熟している。
ドラマは大きく分けて2種類ある。
この2人は一体どうなるの? 的なドキドキハラハラなものと、パターン化した中で物語を転がしていくものの2種類。
どちらにも良さはありますが、私はどうやら後者を好きみたい。
なんだかんだ言いながら、最後のシーズンまで見続けそうな気がしてきます。
シーズンはいくつまであるのだろうと調べたら・・・10シーズンまであると判明。
1シーズン10話なので100話。
そ、そうか、100話か。
と、ちょっと腰が引けてしまいますが、この調子ならイケるかもしれないとも思ってしまう。
そんなドラマです。
冬の準備はもう済ませましたか?
私は冬支度だけは、開始時期が世間の皆さんより早い。
他のことは押し並べて遅いのですが、寒さに対する準備だけは、とっとと始めることにしています。
冬用の厚い布団を引っ張り出す。
湯たんぽを押入れから出す。
そして加湿器も出します。
加湿器の外ぶたパッキンを取り換えようと、ドライバーを準備。
取説によれば外ぶたパッキンは消耗品なので、1年に1度交換する必要があるらしい。
大事なことなのか、何度も取説に書かれていました。
でも毎年って、どうなの、それ。
と、何故か素直に受け入れられない。
外ぶたパッキンは大した金額のものではないのに、2年ぐらいイケるんじゃないの? と根拠もなしに、使用できる期間を倍にする。
交換するのは面倒だけれど、なにかあったらマズいから、一応先に買っておこうとネットで購入。
だからパッキン自体はすでに用意済み。
交換だけしていなかった。
そして気が付けば3年目となるシーズン突入まで、カウントダウンが始まる時期に。
さすがに交換しようと、加湿器のメーカーの公式サイトで取り外し方と、取り付け方の動画をチェック。
動画を真似てネジを外してパッキンを外す。
買っていたパッキンを取り付ける。
が、なんだかパッキンが、ピタッと外ぶたにフィットしない。
隙間が出来ちゃう。
取り付け方を間違えたのか。
もう一度動画をチェック。
やり方は合っている。
しばし眺める。
それから10分ほど経って、ようやく気が付きました。
2年前に買ったパッキンは劣化してしまったのだと。
やっちまいました。
交換する気もないのに先に買っておくなんて、愚かなことをしちまいました。
ゴム製品は使用していても、使用していなくても、劣化するという事実を、どうして気付かずにいられるのでしょう、私は。
これまでだってゴム製品が劣化することを、何度も見てきていたというのに。
書類を束ねていた輪ゴムが、数年で伸びて、切れてしまうのや、スーツケースのキャスターが、ボロボロになったのを見てきました。
パッキンだってゴム製品。
2年も放置したパッキンは劣化すると、予想してしかるべきでした。
そもそもそういう特性があるからこそ、1年に1度交換してくれと、メーカーは言っていたのでしょう。
結局パッキンを新たに購入し、それを古いものと交換しました。
なにかあったらマズいと考えるなら、買うだけでなく交換しておくべきでしたね。
これからは取説通りにする女になる。
と、心に誓いました。
サッカーワールドカップ、カタール大会に臨む選手が発表されましたね。
発表前から予想して盛り上がっているファンもいたようですし、メディアでも解説者たちが、独自の視点で予想していました。
で、私は、というと・・・毎度予想はしません。
それよりも選ばれなかった選手に、インタビューなんてしないでねと、すでに選に漏れた選手のことを考えてしまう。
選ばれなくても劣っているということではなく、あくまでも監督が考える戦い方に、フィットしなかっただけ。
選に漏れた選手たちには、そう思って欲しい。
だから「今のお気持ちは?」なんて聞かないで、そっとしておいてあげて欲しいのです。
なんて、勝手に心情を推測していますが、選手たちはもっとタフでしょうか。
日頃から選んで貰えず、ピッチに立てない経験を何度も経験しているはず。
選ばれなくても腐らずに練習を続けて、コンディションを保ち、出場の機会を得られた時には、精一杯のパフォーマンスを披露して、次の試合にも出して貰えるようにアピールしなくてはいけない。
選手たちはそんな過酷な毎日を過ごしています。
だからメンタルもタフかも。
私の心配なんて不要で、もう次のことに目を向けているかもしれませんね。
友人A子の娘さんがバスケットボールの選手でした。
高校生の時に好成績を収めて実業団に入団。
A子は娘の晴れ舞台を見るべく試合会場へ。
残念ながらベンチスタート。
そりゃそうよね、まだ入団したばかりだもの。
と、母親は思う。
その日、出場機会はなく試合終了。
まだこれからとA子は思う。
が、結局そのシーズンは一度も出場せずに終了。
来シーズンはきっとと、A子は思う。
その何万倍もA子の娘さんは思っていたでしょうが。
そして始まった2年目のシーズン。
やはりベンチにいる。
出場させて貰えない。
A子は「大変申し訳ないが誰か怪我して貰えませんか」と願っていたという。
怪我人が出れば、自分の娘に出番が回ってくるのではと考えた模様。
そこまで母親も追い詰められていた。
3年目になってようやく出場するように。
でも途中で交代させられたりして、レギュラーに定着出来ず。
来シーズンこそと思っていたはずですが、戦力外通告を受けてしまいます。
選手としての契約は更新出来ないが、母体の会社で会社員として働くことは出来るという。
厳しい世界ですね。
娘さんは一週間泣き明かし、そこの会社員として働くことを選択。
大変です、スポーツ選手は。
現在の彼女は一児の母となり、幸せに暮らしているようです。
努力しても報われないこともある。
どっちかというと報われることの方が少ない。
それでも生きていく。
その先に別の喜びがあると信じて。