「ラン活」が盛り上がっているらしい。
この言葉を聞いた時、てっきりランニングのランかと思ったのですが、ランドセルのランでした。
ランドセルの購入活動を略して「ラン活」というそうです。
元々、ランドセルを買うという行為はとても大きなイベントでしたが、少子化となった日本では、惜しみなく金を払う傾向に拍車がかかり、それを目当てに各社が競うという構図に。
多様で高額化の流れも必然でしょうか。
最近はコラボランドセルが増えていて、人気らしい。
アイスクリーム専門店や、フランスのプロサッカーチームとのコラボランドセルがあるという。
ランドセルとアイスクリームをコラボしようと考えた人、凄いですね。
この提案の実現化に賛成した上司も凄いですが。
この他にもリボンやチャームなどで、カスタイズ出来るランドセルもあるそうです。
ランドセルの進化が止まりませんね。
私の赤いランドセルは祖母から貰ったものでした。
かぶせ部分を留めるところがマグネット式のものが主流でしたが、私のはベルト式。
左右に付いたベルトの穴に、小さな棒を挿し込んで留める必要がありました。
マグネット式では、すぐに壊れてしまうだろうからとの祖母の判断で、選ばれたものでした。
これがとても面倒でした。
他の子はスマートにカチッと一瞬で留めるのに、私は右のベルトの穴に・・・などとモタモタすることになる。
そもそもトロいのに、ランドセルの開閉の度に手間取ることになる。
祖母は出来の悪い私を心配してくれていました。
私が行くはずだった小学校を、学区外の小学校に変更したぐらいの人。
変更の理由は、横断歩道を渡れないかもしれないからというもの。
行くはずだった小学校は交通量の多い道路沿いにあり、家からだと横断歩道を渡る必要がありました。
勿論、そこには信号があるし、当時緑のおばさんという見守り専門の人も配置されていたのですが、祖母は「うちの孫は渡れないかもしれない」と心配したのです。
私への信頼度がゼロだった。
だから私は徒歩1分で行ける小学校があったのに、徒歩10分の距離にある学区外の小学校に行くはめに。
ここまで私を心配していた祖母なのに、ランドセルをベルト式のものにしたら、面倒臭がって閉じず、かぶせ部分をパタパタはためかせながら通学することになると、予想してくれなかった。
あの面倒臭いベルト式、今も売っているのでしょうか。
苔活が人気らしい。
苔を育て愛でる活動のようです。
そしてガラス容器の中で苔を育て、インテリアの一部とする「苔テラリウム」。
これを楽しむ人が多いんだそうです。
そういえば近所のクリニックの受付カウンターに、苔テラリウムがありました。
なにか育てようとして失敗したか、途中なのかと思ってスルーしてしまいましたが、あれは苔を鑑賞するものだったみたい。
温度と湿度を保てる密閉空間の容器内は、育てるのに向いている環境らしい。
新聞記事によれば、水遣りは月に2回でいいという。
それ、いいですね。
サボテンを枯らした私としては、水遣りがたまにでいいというのは魅力的です。
またちゃんとメンテナンスを続ければ、半永久的に育てられるというのいい。
専門店が増えているそうで、初心者向けの製作体験コースもある模様。
興味を覚えて専門店の店名をメモしました。
私が書いた小説の中に、主人公が子どもの頃に大人から「大きくなったら、なにになりたいか?」と聞かれて、「苔になりたい」と答えたというシーンがあります。
その答えを聞いた親はどう解釈したらいいのか困惑し、我が子の行く末を案じます。
でもすくすくと成長してくれたと、親は昔を振り返って語る・・・そんな場面です。
執筆の際になぜ苔と答えることにさせたのか・・・記憶がありません。
子どもは突飛なことを言うとの思いから、出したアイデアだったような気がします。
A子の娘、B子が5歳ぐらいの時の話。
「大きくなったら、なにになりたい?」と私は尋ねました。
しばらく考えてからB子は答えました。
「チンジャオロース」と。
「好きな食べ物じゃなくて、大きくなったら、B子ちゃんがなりたいもの」と、私は質問の内容を説明。
するとB子はしっかりと頷いて「B子、大きくなったらチンジャオロースになりたいの」と明言しました。
「そうなんだぁ」と言うしかなかった私。
どういうリアクションが正解だったんでしょう。
それから約20年。
B子はチンジャオロースになる夢は諦め、歯科衛生士として働いています。
新聞を読もうとしたら・・・購読しているのとは違う新聞だった。
購読している新聞は、私が住んでいるエリアでは人気がないようで販売所がありません。
だからライバルであるはずの、別の新聞社の販売所に、配達を依頼するというスタイルを取っています。
今朝届いたのは、その配達を依頼されているところの新聞でした。
間違いか、或いは作為的なものか。
しょうがないのでその新聞を読むことにする。
まずその文字の大きさに驚く。
普段読んでいる新聞の1.5倍はありそう。
そして書体の違いのせいなのか、インクの量の違いなのか、文字が濃い。
だから読み易い。
しみじみ思う。
購読している新聞は読み難かったと。
やはりこの配達ミスは作為的なものかも。
「ほら、うちの新聞はこんなに読み易いよ」と言いたいがために、わざと違う新聞を入れたのではないかとの疑いが強まります。
普段読まないので紙面構成も内容も新鮮。
紙面の1/4ほどを使って、警視庁人事が掲載されています。
所属名と指名だけがずらっと。
凄い。
「そうそう、これ、待ってたのよ。欲しかったんだよね、この情報」と喜ぶ読者って誰?
紙面の1/4を使って掲載するほどの、価値がある情報なんでしょうか?
そしてテレビ欄がカラー。
これも新鮮。
広告を出稿した番組の欄には色が付けられていて、目立つようになっています。
非常に広告主を意識した作りに、営業意識の高さを感じます。
普段読んでいる新聞のテレビ欄なんてカラーじゃないし、文字が小さいから読み難い。
本当は削りたいと思っている欄だけど、慣例なのでやっていますといった、嫌々感がぷんぷんしているのに。
更にラジオ欄の大きさも新鮮です。
テレビ、ラジオの番組をチェックする読者が多いとの判断から、このようにしてあるのでしょうかね。
なんだかこっちの新聞の方がいいような気が。
単純な配達ミスだったのかもしれません。
しかしもし作為的なものであったとしたら、まんまとその術中に嵌りつつある私。
購読料金はどれくらい違うのか、チェックしてみようという気になっています。
短歌を楽しむ若い人が増えているのだとか。
SNSなどで短い文章で遣り取りをする今。
31文字で表現する短歌との相性がいいのかも。
以前、俳句が趣味という人物を、小説の中に登場させたことがあります。
執筆していたら、物語上、その彼の作品とする俳句が、少なくとも3つは必要になってしまいました。
どうする、私。
俳句なんて作ったことがない。
国語の授業中に、昔の人が詠んだ俳句の勉強をした記憶はありますが、その歌の意味を教えて貰っただけのような・・・。
ということで、生まれて初めて俳句を捻り出すことに。
五七五というのは知っている。
つまり合計17文字。
季語なるものを1つ入れるお約束事がある。
ここまでは分かっていますが、分かっているのはこれだけとも言える。
どういう手順で作るのが、スタンダードなのかも分からない。
しょうがないので季語がずらっと並ぶリストを探し、その中からいくつかを選ぶ。
その季語を使って、俳句らしく見えるものを作ろうと必死に考える。
17文字という制約の壁にぶち当たる。
仮に季語が5文字だとすると、残りは12文字しかない。
これでなにをしろと?
そこで私がまずしたことは・・・執筆中の小説に加筆。
俳句好きの登場人物が、下手な横好きであるという文章を入れました。
これで下手な俳句でも、違和感をもたれずに済みます。
そうしておいてから俳句作りにトライ。
私は長編の小説を書いています。
ちょっと油断すると「気が付いたら100枚超えちゃってました。へへ」というぐらい、言葉をたくさん使って世界を作っている。
こんな私にとって17文字でなにかを表現するのは、とんでもなく大変。
もうこの登場人物が俳句好きという設定を、止めようかなと百万回思いましたが、自分を叱咤激励しながらなんとか作りました。
これをきっかけに俳句を作るように・・・とは、ならなかった。
最近短歌を楽しむ人が増えていると知り、短歌ならば・・・との思いがちらっと。
短歌は31文字。
季語も不要。
俳句よりもハードルが低そうに見える。
それでもたったの31文字で表現するのは、難しいものでしょうが。