会社員時代浮かんだ疑問を口に出していい時と、いけない時があると知りました。
当時勤務していたのは靴のメーカー。
月末になると営業部のスタッフたちの顔色が険しくなりました。
私がぶらっと営業部のあるフロアに下りていくと、その殺気立った気配に「なんだ、なにがあった?」ときょろきょろしたもんでした。
なんでも大抵の取り引き先の支払いは、27日から31日までの数日に集中しているとか。
大方のスタッフが目標額に到達していないので、慌てて取り引き先を周り注文を取ろうとする。
このため月末になると、営業部には切羽詰まった感が漂うとのこと。
そう耳にした私は、各部署のスタッフが出席する会議で頭に浮かんだ疑問をぶつけました。
「会社の売り上げを考える時の締日を、月末じゃなく15日とかにするのはダメなんですか?」と。
数日で売上を挽回するのは難しいだろうが、もう少し時間的余裕があれば、計画的な営業活動をしやすくなるのではとの考えでした。
たちまち部屋に溢れていく気まずさを、今でもはっきりと覚えています。
反対意見は出ず、だからといって賛同も得られず、そうかといって無視はできない類の質問だったのか、室内にはただ密度の濃い空気が充満していく。
その時、昼休憩開始を知らせるチャイムが鳴りました。
その場にいた全員がほっとしたような顔をしたのも、鮮明に記憶しています。
自分の持ち物を手にどんどん部屋を出て行く皆を見送りながら「マズいことを言いましたか、私?」と隣の上司に小声で尋ねると、「マズいことじゃなかったから、困ったんだろう」とのコメント。
ランチを終えて、午後1時から会議は再開されました。
が、淡々と売上や業務の報告が続くばかり。
どうやら午前中の私の質問はなかったことにするつもりのようでした。
私の意見を採用しない、一考する価値もないと判断したのは誰だったのか、またその理由も不明です。
それから5年後、私がその会社を辞めるまで会社の締日は月末のままでした。
月末になると営業スタッフが青い顔をするのも。
会社という組織の中では、慣例を変えるにはとてつもなく大きな勇気が必要だと学んだ一件でした。
あなたの会社はどうですか?
最近観た映画で面白かったもののご紹介。
まずは「椿姫ができるまで」。
ヴェルディのオペラ「椿姫」が上演されるまでを追ったドキュメンタリーです。
こういう映画や舞台作品が完成するまでの密着ドキュメントが大好きで、数々観てきた私ですが、その中でもこれはずば抜けて素晴らしかった。
稽古が進んでいくのを追いながら「椿姫」という作品のストーリーも楽しめる二重構造になっています。
椿姫を演じるフランスのオペラ歌手は、生意気さ全開で、演出家の指示を軽くいなして好き放題といった様子。
それが稽古を重ねるうち、二人の間に信頼が生まれ、全身で演出家の言葉を聞くようになっていくまでの過程が見所。
歌手と演出家だけじゃなく、衣装や小道具担当など様々な舞台に関わる人たちの興奮具合も伝わってきて、なんだかこっちまでワクワクしてきます。
アシスタントが「ちょっと確認したいことがあるんですけど」と言って、演出家に近付いていくのですが、その手には付箋がたくさん付いた台本が。
こういう何気ないシーン、たまらなく好きです。
「あぁ、そうだよね、アシスタントさんって、細かいツメをたくさんしなくちゃいけないから、大変なんだよね」なんてちょっと同情したり。
スタッフの打ち合わせ中、小道具のグラスが足りないことが発覚し、演出家が「誰が手配することになってた?」と皆に尋ねると、全員が自分じゃないと責任逃れをしようとするシーンも、あるある、あるね、こういうこととくすりと笑ってしまったり。
椿姫が徐々に魂を吹き込まれ、作品となっていくまでの過程は見ものですし、感動ものです。
次にご紹介するのは「42 世界を変えた男」。
アメリカで黒人初のメジャーリーガーとなった野球選手の伝記映画です。
実在した人物の映像作品の場合、現実がそうだからという足枷があって、エンタメ作品としての完成度を高めるのが難しいケースが多いように感じます。
ですが、この作品は脚本が素晴らしく、カットすること、光をあてること、光の影として散りばめるだけに止めることの判断が見事。
野球に興味がない人も、野球を愛した人、野球に愛された人の人生に心を添わせることができる仕上がりです。
小学校まで10分ぐらいかかりました。
子どもの感覚なので、その距離は結構あるように思っていました。
実は自宅から5分で行ける場所に小学校がありました。
エリアからいくと、私はそちらの学校に行くべきであったと後で聞きました。
本来であればそちらに行くべきであったのに、なぜ行かなかったかというと、祖母が反対したというのです。
そちらの小学校へ行くには、大通りを渡らなくてはなりませんでした。
赤信号だったら待ち、緑になったら横断歩道を渡る・・・これが私にはできないと祖母は思ったというのです。
私を誰よりも理解していた祖母が「無理じゃないかねぇ、この子に横断歩道を渡るのは」と言ったとのこと。
確かに私はぼんやりしていた子どもでした。
残念ながらそれは現在も続いていますが。
通学時間には恐らくみどりのおばさんがいるでしょうし、ほかの子どもたちもいるでしょうから、それほど危険ではないと今の私は思うのですが、当時祖母は猛反対。
結局私は学区を無視し、遠い小学校へ通うことに。
そちらの学校には、住宅街の中をてくてく10分歩けば辿り着けます。
信号がある場所はゼロ。
当時は誘拐の心配などはあまりなかったのでしょう。
下町の住宅街で、大人の目がしじゅう光っているようなエリアだったせいもあったかもしれません。
それにしても、一人で横断歩道は渡れないだろうと判断された自分が不憫です。
確かに私は祖母を心配させるに十分なエピソードを残してきました。
幼稚園の頃には、ルート別に花の名前のついたバスに乗って帰るのですが、なぜかそのバスに乗り遅れる。
遊びに夢中になっていて・・・なんて子どもらしい理由があればいいのですが、ただぼんやりしていて、自分が乗るべきバスの列に並べず、気が付いた時には園庭に一人なんてことが、週に1回ぐらいある。
その度に祖母が迎えに来てくれました。
そんな時祖母は叱りませんでした。
「それじゃ、帰ろうかね」と言うだけ。
私の手を握り、二人で歩いて帰るのです。
こんな経験を何度もしていれば、私が横断歩道を渡れないだろうと判断するのは無理からぬこと。
祖母のこの判断のお陰で、私は車事故に遭うことなく、小学校を無事卒業することができました。
できれば、卒業できたことを祖母自身に確認して貰いたかったのですが。
ほぼ毎日自宅近くのポストに行きます。
2015年になった今でも、仕事上モノを郵送する必要が少なからずありますし、借りていたDVDを返却する必要もあるからです。
その日も、ポストに向かって歩いていました。
ポストの隣にあるバス停に、バスを待つ人の姿がありました。
50オーバーぐらいの女性です。
と、その女性が踏み台昇降の動きをし始めました。
歩道と車道の段差が5センチほどあるのですが、その差を利用して踏み台昇降のように運動しているのです。
寸暇を惜しんで運動をなさっている。
じっと見ちゃいけない。
そう我が身に言い聞かせれば言い聞かせるほど、意志とは反対に目がその女性に向いてしまう。
その女性はちらちらとバスが来るであろう方角を見やりながら、歩道と車道を上り下りしています。
段々ノッてきたのでしょうか。
スピードが上がっています。
できることならば、1センチも身体を動かさずに1日を過ごしたいと思っているぐうたらな私からすると異星人。
ほんのちょっとした空き時間があったら、それを運動の時間にあてる・・・素晴らしい。
私もそのバス停で何度もバスを待ったことがありますが、「来ねぇなぁ」ぐらいしか考えたことがない。
まず歩道と車道の段差に目がいかないですし、気が付いたとしても、その段差を使って運動ができるという発想にまで辿り着けない。
こういう方というのは、常に貪欲に運動する機会を窺っていらっしゃるのでしょうか。
以前ホームで電車が来るのをぼんやり待っていた時、私の前に立っていた40オーバーぐらいの男性が、急に腰を捻り出したことがありました。
左にゆっくり捻り、次に右にゆっくり捻り、また左に・・・。
そうやってしばらく腰を捻った後、今度は首を回し始めたので、あぁ、運動をしているのだなとわかりました。
隣のホームにいる誰かと、ボディランゲージで会話でもしているのかと思ってしまいましたが。
この男性も電車が来るまでの僅かな時間を、運動にあてていました。
やはり「俺はチャンスがあったら、運動してやるぜぃ」との強い意欲を常に持ち続けている方なのでは。
そういうギラギラした気持ちがないと、他人の目がある場所で、ほんの僅かな時間を使って運動をし始めないように思うのですが、どうでしょう。
常に「運動してやるぞ」という意識をもって生活してみようかと、ほんの一瞬だけ思いました。