小説のアイデアはいろんなところから生まれます。
街で見かけた光景や、美術館で出合った一枚の絵から小説が生まれることがあります。
映画からテーマが生まれることもあります。
小説「エデンの果ての家」は、大好きな映画「エデンの東」のような作品を書きたいとトライしました。
テーマとまではいかなくても、映画から受けたインスピレーションを、1つのシーンに取り込むこともあります。
映画で心に残ったシーンを、自分なりにアレンジして小説に入れるのです。
ある映画で、主演女優が朝職場に出社してくるシーンがありました。
クラシックなデザインのバッグを自分のデスクに置く動きがとても優雅で心に残り、似たような状況を作り、同じように小説の登場人物を動かしたことがあります。
地位も権力もある女性が登場する映画がありました。
その女性が広い自室で客と対面する場面。
その女優は長いソファの端っこに座っていました。
背中は真っ直ぐで堂々としているように見えるし、セリフの内容は理路整然と指示をだしているといったもの。
なのにソファの端っこに座っているのが、実は自信がなくて心のもろさを隠しもっている点を、見事に表現していると思いました。
小説の中の1シーンにアレンジして使わせて貰いました。
これは確か海外のテレビドラマだったと思うのですが、警察関係者の夫が犯罪者から逆恨みされ、その男に妻が殺されてしまうという作品を観ました。
妻の葬儀で夫がメモを見ながら弔辞を読んでいくシーン。
参列者たちは涙を零しているのですが、夫はとても淡々と語っていきます。
妻との出会いや、これまでの生活を冷静に語る夫の目には涙はありません。
カメラが回り込み、メモが書かれたカードを持つ夫の手元が映ります。
カードを持つ指先の爪が白くなっていて、力が入っていることがわかります。
哀しみと怒りを堪えていることが一瞬でこちらに伝わり、ぐっときました。
涙を流したり、大声を上げたり、物を壊したり・・・といった表現以外にも、深い哀しみを伝える方法があるのだと教わりました。
このように様々なものから影響を受けて、1つの小説が生まれていきます。
小説「エデンの果ての家」の主人公は盆栽のビジネスをしています。
この執筆に入る前の準備中、盆栽に関する本や雑誌を読み込みました。
やがてこれは私もやってみるべきではないかとの思いが。
ネットで探してみると・・・盆栽の通販は結構盛況のようで、たくさんのショップがあります。
目を付けたのはミニ盆栽と銘打ったもの。
初心者がいきなり大きなものは難しいでしょうし、我が家には庭はなく小さなベランダが1つあるだけなので、小さいものがよろしかろうと判断したわけです。
サイトを色々みてみると、どうも初心者には五葉松という品種のものが向いているらしいとわかってきました。
それじゃ五葉松にしようかと考えるのは、ごくまっとうな方の思考。
2本も3本もネジが緩んでいる私の場合、この五葉松がどうも渋過ぎて「カートに入れる」をクリックする気になれない。
松はとっても格好いいのですが、いかにも盆栽の王道といった感じに、私はちょっとなぁと思ってしまうのです。
初心者だからこそ王道を目指し、複数のサイト運営者の言葉を素直に聞きゃあいいものを、渋過ぎるという理由で購入を躊躇う愚か者が私です。
そうこうするうちに桜を見つけてしまう。
直径10センチほどのティーカップに、1本の桜が収まっています。
高さは約10センチと書いてあり、とても小さいことがわかります。
可愛いです。文句なく。
こっちだったら絶対手入れが嫌になったりしないと思うの。だって可愛いんだもの。
テーブルに置いたら素敵。だって可愛いんだもの。
と、気持ちは100%桜に向かっていきます。
育て方の冊子が付いているようだし、きっとできるわ、私にだって。
と、まったく根拠がないのに確信し、この桜のミニ盆栽を購入。
届いた桜は可憐な姿をしていました。
その可愛さに胸いっぱい。
朝起きると桜の様子をチェックし、昼食の準備をする前にも桜の状態を調べ、外出する前には「行ってきます」と、戻った時には「ただいま」と声を掛けるほどの溺愛っぷり。
なのに。というかやっぱり。
桜はどんどん元気がなくなっていく。
嫌な感じです。
そしてふと思い出すのは遡ること20年ほど前のこと。
手入れ不要と言われていたサボテンを枯らしたことが。
この記憶をどうして購入前に思い出せないのかと、自分が腹立たしい。
購入したサイトにアクセスし、Q&Aのページで私と似たような状況を相談している人がいないかをチェック。
するとありました。
似たような状態になった人からのSOSの投稿が。
これに対するサイト運営者のコメントは「残念ながら、復活させるのは難しいと思われます」。
呆然としました。
桜に必要だったのは愛情や声かけではなく、適切な生育環境と技術だったようです。
こんな当たり前のことにこの時点で気が付きました。
小説「エデンの果ての家」の中で、主人公は盆栽診察室を開いています。
客は病気になった盆栽を持ち込み、主人公が診察。
客は自宅でできる回復方法を教わったり、難しい場合は主人公に預けたりします。
主人公は盆栽が回復するまで面倒をみて、元気になったら持ち主に返すのです。
こういう場所があったらよかったのにとの思いが、小説の中にこの設定を作らせました。
文庫「エデンの果ての家」が8月4日に発売になります。
記憶の仕方は人それぞれ。
友人、親子、夫婦・・・こうした仲でも記憶の仕方は一緒じゃない。
同じ所で同じ体験をしたはずなのに、数年後それぞれが語る思い出は、まったく違った色合いになっているといったことはよくあります。
笑い話で済ませられればいいのだけれど、元々上手くいっていない父と息子だったとしたら・・・それぞれが記憶する思い出の違いはちょっと切ない。
弟が母親殺害の容疑で逮捕されます。
兄は不仲の父親と、弟の無実を証明するため動き出します。
兄と父がそれぞれ披露する思い出は、やっぱり自分流にアレンジされた思い出。
だからもう一方はそれは違うと否定する。
そうやって兄と父の距離は離れていくばかり。
こうやって書いているとなんだか救いのない話のようですが、読了後の味わいは殺伐とはしていませんので、気軽に手に取っていただければと思います。
静かで趣のある装丁になっています。
憂いを湛えた男性の横顔。
傷つきやすさと強さを両方合わせもった人物を表現していて、素晴らしい絵です。
優しさも滲み出ているこんな男性がいたら、多くの女性が惹かれてしまうのではないでしょうか。
この人物を中央に置き、シンプルにタイトル文字で囲む装丁のデザインセンスも素敵で、気に入っています。
「エデンの果ての家」の単行本のデザインも好きだったのですが、この文庫の装丁も大好きです。
8月4日には文庫の紙バージョンと同時に、電子書籍版も配信開始になります。
お好きな方をお買い求めください。
幸せを感じる瞬間はいつか。
これは人それぞれですよね。
私の場合小説を書き終えた時です。
と答えたいところなのですが、残念ながら小説を書き終えた時幸福感に包まれたことはありません。
大抵ヘロヘロになっていて放心状態になっています。
登場人物たちが住んでいる星があって、小説執筆中の私はそこに特別に招かれている状態。
小説を書き終えた時というのは、彼らに別れを告げるタイミング。
バイバイと手を振りながら楽しかった日々を思い出し、もう会えない寂しさを感じています。
同時に安堵感もあります。
出来はともかく、彼らの暮らしを書き終えられたことにほっとするのでしょう。
それじゃ、幸せを感じる瞬間はないのか・・・いやいや、あります。
大好きな外郎(ういろう)を食べている時。
テキトーに作ったカレーが、奇跡的に美味しかった時。
人間ドックを受けて、なんの指摘も受けなかった時。
リサイクルショップにバッグの見積もりを依頼したら、予想より高い値段を付けられた時。
いつも鋏でカットしなくてはならないパンの袋を、さっと手で切れた時。
どうしようかなとずっと悩んでいた服が、セールで安くなっているのを発見した時。
目的地に迷わずに到着できた時。
前の晩に暴食したのに、体重が増えていなかった時。
鼻が詰まっていない時。
こうやって書き出してみるとちっちゃなことばっかりだなぁと思いますが、それで幸せを感じられるのですから、まぁOK。
最後の鼻が詰まっていない時について説明すると・・・私は1年中鼻が詰まっているのですが、ごく稀に「今日は詰まっていない」と感じる日がありまして、そんな時には「今日は鼻が詰まっていない記念日」にしようと思うほど、幸せな気持ちになります。
さっさと耳鼻科に行けって話なんですが、治療法をネットで調べてみると、最終的には手術ということになりそうで、それが嫌なばっかりにマスクをして寝たり、吸入器を使用したりして、自己流で状況を悪化させない努力をしています。