誕生日

  • 2019年10月24日

先日、誕生日を迎えました。
前日に「あ、明日は誕生日だ」と気付きます。
そして誕生日ぐらいは仕事の予定を入れずに、のんびり過ごそうと計画していたのに、結局、そうはならなかったことを思い出す。

で、誕生日の朝になると、すっかりそのことを忘れている。
いつものような朝ごはんを食べて、いつものルーティンを済ませてパソコンの前に。
メールを受信すると、タイトルにずらっと並ぶ「お誕生日おめでとうございます」の文字。
「あ、今日は誕生日だった」とまた改めて思い出す。
以前なにかを購入したネットショップで、誕生日を入力させられたんでしょう。
こうしたメールには大抵、私の誕生日を祝って特別なクーポン券などが付いている。
今、特に欲しい物はないものの、急にその気になるかもしれないので、メールは削除せずにフォルダに残しておく。

誕生日が来るのが嫌だったのは30代の半ばまででした。
誕生日が近付くと、あー、また1年経ってしまったと思い、なんにもなかった1年だったと憂いたものでした。
焦りのような、不安のような、そういうものがピークになるのが、誕生日でもありました。
だから祝うなんて気持ちには到底なれませんでした。

それが30代の半ばを過ぎた頃から、徐々に変わっていきました。
1年大きな病気もせずに過ごせたことに感謝するように。

そして50代に入ると、その感謝の気持ちは更に強くなりました。
誕生日をつい忘れがちになっている一方で、思い出した時には、なんとか無事に暮らせているのは、有り難いことだなぁとしみじみします。

そしてこれから先のことをあれこれ考えてみます。
10年後。
私はどうしているでしょうか。
まったく想像が出来ません。

想像出来ない、あるいはしたくないといった50代は、多いのではないでしょうか。
またふと立ち止まり、これまでのことを振り返り、これから先のことを思って・・・途方に暮れるなんて感覚を味わったことのある人も、多いように思います。

新作「たそがれダンサーズ」では、そんな50代のおじさんたちがたくさん登場します。
若い頃に描いていた未来像と、現実の差が身に染みる50代。
彼らが社交ダンスと出合い、それまでとは違う種類の人生の楽しみ方を知っていきます。
同世代の方たちも、違う世代の方たちも、この小説の中で頑張るおじさんたちを、応援していただけたら嬉しいです。

メイク番長

  • 2019年10月21日

仲間内でメイク番長と呼ばれている女性がいます。
A子番長はメイクに関する知識がとっても豊富。
新製品の情報もしっかりとゲットしている。
これまでメイク関係の仕事に就いていたことはなく、あくまでも個人の努力で、番長の地位を獲得した人物なのです。

先日、友人らで集まった際、メイクの話に。
そうなると番長にお尋ね申し上げ、アドバイスを頂戴するといういつもの流れに。
相変わらずの適格な指摘を次々に繰り出し、皆で感心して聞いていました。

そこで私は手を挙げ「最近はこんな感じのメイクなんだけど、宜しいでしょか?」と質問。
番長はちらっと私を見ると「もうそれでいい」と言いました。

なんか、引っ掛かる。
まず「もう」という言葉。
なにかのラインがあって、そこを超えてしまったからなんだって一緒よ、との意味合いを含んでいるように感じる。
更に「それで」の「で」も引っ掛かる。
肯定的な場合は「それが」などと、「が」を使うはず。
「それが」ではなく、「それで」となると、諦めと手の施しようがないとのニュアンスが載っかって来る。

出来の悪い生徒が、先生から見放された時に感じる寂しさに似たものが胸に。

肌が弱くしょっちゅう荒れるので、これを止めてみようか、これもなどと言っているうちに、メイクはどんどんシンプルに。
今では日焼け止め効果の入った、ベージュの色付きクリームを塗るだけに。
また唇もなにを塗っても皮が剝けてしまうぐらい弱い。
やっと見つけたリップは3色展開しているのですが、残念ながらどれも私には合わない。
そこで無色のものを唇に塗るだけに。

唇に色を置かないと、かなりぼんやりした印象になる。
と、感じていることを説明し今一度番長に確認する。
「宜しいでしょうか」と。
すると番長は「もうそれでいい」と、またもきっぱりと言い切りました。

色やモノでごまかそうとしても、もう無理な年齢なのだから、なにかを載っけてカバーするのではなく、いい状態で肌をキープするという考え方に、シフトするべきだと番長は語りました。

そうか。
もうそういう年なのか。
と、納得。
番長はいつも正しい。

こうして番長のお墨付きを貰った私は、自信をもってぼんやりした顔で人様と対面するようになりました。

サイン帳

  • 2019年10月17日

実家に残っていた私の物を整理していた時のこと。
サイン帳を発見。
高校を卒業した時に、クラスメイトたちに書いて貰ったものでした。
当時はA5サイズほどのバインダーが売られていて、それをサイン帳と呼んでいました。
それには無地のカードが付いていました。

卒業の1ヵ月ほど前に、その紙をクラスメイトたちに1枚ずつ配って歩くのです。
そして「私への最後のメッセージをこれに書いて」と頼むのです。
そうして書いてくれたものをサイン帳に綴じて、1冊の卒業記念ブックとしました。

書いて貰うかわりに、こちらも書かなくてはなりません。
クラスメイト一人ひとりに向けて、思い出などを書いたもんです。

30年以上経ってそれをパラパラと捲ってみたら・・・私の過去がそこかしこで披露されている。
私へのメッセージなので、当然私がらみのエピソードが書かれているのですが、それがどれも酷い。
まだ親しくない頃に突然私が歌い出したとか、いつも2限目の後の休憩時間に早弁してたよねとか、売店の女性販売員の一人が、計算が不得意だと発見した私が、わざとお釣りの計算が難しくなるような支払い方をして、小銭を儲けていたとか。
これは本当に私のことなのか? と何度も思う。
しかしながらカードの冒頭には、しっかりと私の名前が入っている。
とういうことは、やはりどれも私がやってきたことなのでしょう。

恥ずかしいを通り越して不思議。
自分ではなく、ちょっとおかしな女の子の話を聞かされているかのよう。

そして今朝のこと。
中指に巻かれた絆創膏に気が付き、びっくり仰天する。
ざっくりと切ってしまったのは、一昨日の掃除中でした。
ブラインドと接触させてしまい、結構な量の出血。
すぐに患部を絆創膏で覆いました。
そして水仕事をする度に、絆創膏を新しいものと交換していました。
そして今朝、何気なく中指に目を留めたのです。
前夜、寝る前に巻いた絆創膏を。
でも。
怪我をしたのは人差し指なのです。
隣の中指に絆創膏を巻いてどないすんねん、お前。
と、さすがに大きな声で自分にツッコミました。
中指の隣の人差し指は、まだ生々しい傷跡を見せている。
絆創膏をする時に見なかったのか、隣の指を? と己に問いたい。
ドジというレベルを超えている。

そしてようやく、自分はちょっとおかしな人なのだということを、受け入れる時期なのだと悟る。

高校生の頃からやらかしてきたことを思えば、性質なのでしょう。
そしてこれからもずっとそうなんでしょう。
自分を受け入れて頑張って生きていかねば、と思いました。

思い付く

  • 2019年10月14日

そのアイデアはどこから?
と、よく聞かれます。
そんな時には「なんとなく、ふと、思い付いたんです」と答えます。
そうとしか言えないのです。

ただ思い付くタイミングには傾向があります。
なにかしている時が多いのです。
キュウリを刻んでいる時とか、洗濯洗剤をボトルからキャップに移している時などです。
難しいことを考えている時ではなく、なにかをしているんだけれど、それはとても慣れている行為なので、脳をそれほど使っていない・・・なんて時。
こういう設定はどうだろうとか、こういうストーリーは? などと思い付くのです。

こうしたことは風邪を引いたとか、頭痛がするといった体調不良の時には、一切起こらない。
体調が万全でないと脳は動かないんでしょうかね。

映画を観ている時の脳は、またちょっと違う動きをするように感じます。
これは映像だから出来る表現なんだよなとか、これをテキストで表現するのは至難の業とか、今のセリフ、いいなぁとか。
映画作品そのものを楽しみながらも、ヒント集を見ているような感覚があります。
勉強しているといった感覚に近いのです。

これが他の方の小説を読んでいる時には、一切起こらない。
いち読者となってただひたすら読むだけ。
この表現はどうだとか、この設定に無理はないかとか全然考えない。
その作品世界に没入するだけ。
読み終わって「面白かった」「イマイチ」といった感想はもちますが、あのシーンは参考にしたいとか、あのセリフは真似したいなんて思わない。
なんでですかねぇ。
不思議です。

それでもちゃんと好きな作家というのはいます。
どういうところが好きなのかとか、作品の感想とかはペラペラ喋れます。
ただそれはあくまでも、いちファンとしてのもの。
同業者なのだから、そこからなにか盗めよと思ったりもするのですが、全然盗む気にはならないようなのです。

ただ自覚はなくても、影響はしっかりと受けているようです。
私の原稿に対して、校正者が誤りや文章の歪みなどを、チェックしてくれるのですが、時々「この表現でOK? 翻訳小説のような語順?」と書かれていることがあります。
あ、そうなんだ。
と、指摘されて初めて気が付きます。
これは翻訳小説を読むことが多く、そうした文章に慣れているので、つい使ってしまうのでしょう。


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