ATMの前で首を捻ることがしばしばあります。
誰かがゴミをATMの周囲に放置しています。
そうしたゴミの中に、非常に高い確率で栄養ドリンクがあることに、私は長年疑問をもってきました。
それは100ミリリットルサイズの小瓶で、元気が出るだとか、もうひと頑張りといったキャッチフレーズと共に売られている品です。
野菜ジュースやミネラルウオーターであったことがない。
なぜ、ATMの周囲に捨てられているのが、飲み終わった栄養ドリンクなのでしょう。
そんなに皆さん疲れているのか。
疲れている人はATMに惹きつけられるのか。
疲れているからゴミ箱に捨てずに、放置してしまうのか。
考えれば考えるほど、答えから遠ざかっている気がします。
くしゃくしゃに丸めた取り扱い明細票が放置されているケースもままあります。
勝手に想像してみると・・・。
現金を下ろす。
お札と一緒に明細票が出てくる。
残高をチェックして、ちっと舌打ち。
現金は財布に入れるが、明細票はくしゃっと丸めてぽいっ。
といった流れでしょうか。
用意されているゴミ容器に捨てず、ATMの周囲に放ってしまうのは、社会性の低さが原因でしょうか。
これが栄養ドリンクの場合、どうなるか。
まず、ドラッグストアかコンビニに行かなくちゃいけない。
自宅から買い置きしてある栄養ドリンクを持ち出して、歩きながら飲むというケースは考えにくいので、帰宅途中に栄養ドリンクを買うという場面を想像すべきでしょう。
で、たくさんある商品の中から、あー今日は疲れたから、やっぱこれだよなと、栄養ドリンクを選ぶ。
で、そうだ、お金を下ろさなくちゃと気付き、ATMに行く。
ここまでの流れになる確率はどれくらいなんでしょう。
私がATMで栄養ドリンクの小瓶が捨てられているのを3回に1回は見ることを考えると、相当の割合で、こうした流れがあるように思われます。
その後ATMを操作して、お金が出てくるのを待つ。
これ、私の感覚からするとすぐなんですが、疲れている方にとっては長いんでしょうかね。
それとも一刻も早く疲れを軽くしたいのか、現金が出てくるのを待つ間に瓶を開ける。
で、ぐびっと一気飲み。
お金が出てきたので、瓶をちょっと横に置く。
お金を財布に仕舞って、立ち去る。
栄養ドリンクの小瓶が残る。
こういった流れでしょうか。
こうしたケースがとても多いと考えるべきなんでしょうか。
そうではないと、3回に1回は栄養ドリンクの小瓶を見つける説明がつきません。
それでは、ほかの飲み物を見かけないのは、どうしてなんでしょう。
野菜ジュースをコンビニで買った人は、そうだ、お金を下ろさなきゃと思わないのか。
思って、実際ATMに行くものの、待っている間にその野菜ジュースを飲もうとは思わないのか。
それとも飲むんだけど、ちゃんとゴミ容器に捨てるのでしょうか。
結局、なぜ栄養ドリンクの小瓶ばかりがATMで放置されているかの答えは未だ見つけられていません。
カードをよく送ります。
お礼の言葉を手書きするのですが、こういう時大抵万年筆を使います。
ボールペンよりは字の下手さが目立たない気がして。
あくまでも「気」なのですが。
一度に何通もカードを書くことがしばしばあります。
こうした時、万年筆の文字が乾くまでの間が問題。
ボールペンとは違って、インクが乾くまでの時間が必要。
なので、すぐに封筒には入れず、デスクの隅にちょっと置いておく。
その間に封筒に住所を書くのですが、書き終わってもまだインクは乾いてない。
しょうがないのでその封筒もデスクの隅にちょっと置き、次のカードに取り掛かる、
書き終えて、一通目のカードをチェックすると・・・まだ乾いていない。
デスクの隅に・・・置く場所なし。
デスクにはあれこれ置いてあって、余白の場所はほとんどありません。
あれをそっちにのせて、これをあっちに重ねて・・・なんてすればカードと封筒のスペースぐらいは作れますが、それもメンドー。
なにかいいものはないのか。
と、ネットで探していたら、こんなものが。
カードホルダーというその名もズバリの品。
購入し、さっそくカードを挟んでみると、こんな感じに。
これ、インクが乾く間の待避所としてもいいのですが、切手を貼った後のカードの休憩所としても便利だと気が付きました。
封筒に切手を貼る時、のりの付いた裏面を少し水で濡らして押し付けます。
私の不器用さが原因なのか、切手の周囲も少しウエットな状態に。
そこに別の封筒を重ねると、切手から漏れ出たのりの成分のせいなのか、上の封筒に引っ付いてしまったりする。
2通の封筒を無理して剥がそうとして失敗し、上の封筒には切手の一部分がくっつき、下の封筒には残骸しかないなんてことも。
万年筆のインク同様切手を貼ったら、その周囲が乾くまで、ほかのものと接触させずに置いておける場所があるととっても助かります。
ちなみにこのホルダーに差さっているカードは、オーダーして作ったもの。
名前の上の模様は「桂の葉」をデザインしたものです。
桂の木の葉はハート型だというの、ご存知でしたか?
私は最近知りました。
ちょっと可愛い形なのでカードに入れて貰ったのですが、桂の木の葉がハート型ということがほとんど知られていないため、「桂」つながりでのマークだと気付いた人は皆無です。
とっても可愛いフォルムなのに、認知度の低さが残念でなりません。
毎年この時期愛用している湯たんぽ。
寿命でしょうか、キャップ部分が甘くなってしまい、中に入れたお湯が漏れてしまうように。
早急に新しい湯たんぽを購入しなくてはなりません。
私にとって命に関わる一大事。
湯たんぽの専門ネットショップを見てみると・・・様々な品があって迷います。
今まで使っていたのは、ポリ塩化ビニール製のもの。
柔らかいのと軽いのが特徴です。
このショップではこれ以外にも、ゴム製、ポリ製、陶器製、ウエットスーツ製のものなどが素材別に紹介されていました。
以前買ったのは別のネットショップ。
そこではサイズのバリエーションはあったものの、これほどまでの素材の種類はありませんでした。
色々あるんだなと思いながら見ている時、目に留まったのが「銅製」の文字。
形状は昔の時代設定のドラマで見たことがあるような腹の部分が波打っているもので、どちらかというと武骨な印象の品。
へぇ、今でもこんな昔のタイプのが売られてるんだ・・・なんて思いながら商品特長を読み始めました。
と、意外や意外。
それによれば、銅製のものはお湯の熱伝導性と保温性が優れているとか。
そこにある温度変化のグラフを、ポリ塩化ビニール製のものと比べてみると、銅製の方が長時間温度を保つようなのです。
予想外だった銅製のポテンシャル。
このグラフが正しいとすれば、銅製以外考えられなくね? と思いながら価格を見てみると・・・うーん、高い。
ポリ塩化ビニール製の4倍ぐらいの値段。
くー、どうする私。
散々悩んだ結果、思い切って銅製のを買うことに。
それが、こちらです。
銅製のものにするかで髪が抜けるんじゃないかぐらい悩みましたが、これにして良かった。
温かさがハンパない。
物心ついた時から、夜は靴下を履いて寝ていました。
電気アンカや湯たんぽには、冷え切った私の足を温めるまでの力はなく、それを補う必要があったからです。
それがなんと、この年になって初めて素足で寝るという幸せを味わえるようになりました。
布団に入り、冷えた素足を湯たんぽに接触しないギリギリの位置に置きます。
その足先がみるみるうちに温まっていく感覚・・・最高です。
もしかしたら、私は世界で一番幸せ者かもしれないと呟きながら眠りに突入していきます。
冷え性の皆様、湯たんぽなら銅製のものを検討してみることをお勧めいたします。
様々な性があります。
そしてその性にまつわることでは、まだまだ知らないこともたくさん。
心と身体の性が違って生まれた、性同一性障害といった言葉も最近耳にし始めた気がしますが、最近ではだいぶ認知されてきたように感じます。
ある日、ネットの中をうろうろしていた時、「無性愛者」という単語に目が留まりました。
恋愛感情や性的要求をもたない人たちのことを、こう呼ぶとありました。
こういう方たちにとって、さぞや今の世の中は生き辛かろうと思いました。
恋愛至上主義者が多く、恋してナンボといった風潮。
さらに性に興味があって当然といった世間の雰囲気。
声を上げられない状況の中、本当の自分を押し隠して生きている――。
それは、とても大変なことでしょう。
小説にこの「無性愛者」を登場して貰おうと、すぐに決めました。
文庫「週末は家族」に登場する瑞穂です。
大輔という友人と訳あり結婚をしています。
瑞穂は自分が「無性愛者」であることを大輔には話していますが、親には言えずにいます。
きっと理解して貰えないとわかっているからです。
自分が感じている違和感を言葉にして、誰かに理解して貰うのはとても難しいことです。
その瑞穂が母親と鎌倉に行くシーンがあります。
なにも知らない母親は、子宝に恵まれるお守りを買おうと言い出します。
切り出すタイミングかもしれないと瑞穂は思いますが、躊躇ってしまいます。
カミングアウトして楽になりたい。
母親には受け入れて貰いたい。
そんな思いがあればあるほど、言いそびれてしまう。
マイノリティーの苦しみや生き辛さが描けていたらいいのですが・・・。
会議で話が暗礁に乗り上げた時、進行役の人が言うことがあります。
「こういう時、女性はどう感じるのでしょうか。どうでしょう、女性は?」
私は「そうだな、女の意見は大事だな」と思い、周囲を見回します。
すると全員が私を見つめていて、その場にいる女が私だけだと気が付きます。
私に質問していたのだと知り、はっとします。
そうだ、私は女だったのだと。
仕事の打ち合わせの席で、自分が女だということは大抵忘れています。
様々な意見が出た時に、それは男の意見だなとか、それは女の考え方だなどと分析はできるのですが、自分が女であることとは別次元のこととして捉えているようなのです。
小説には男も女も、そうではない人もたくさん出てくるので、常にどちらの視点にも立てるようにしているうちに、自分が女であることを忘れてしまうようになったのでしょうか。
性というのがなんだか曖昧なもののように思えてきます。