お世話になったお礼になにかをプレゼントしたい。
そんな時、どんな品を贈りますか?
これ、結構難しいですよね。
いつも悩みます。
すっごく素敵なモノにするか、笑いが取れるモノにするか。
このどちらにするかで、まず迷います。
「この2択なのかいっ」との声が聞こえてきそうですが、私の場合このどっちかです。
で、どっちにしても難しいことに変わりはない。
笑いが取れるモノにしようと決めた時、お煎餅を選択することがあります。
買うのはネットショップのあるお店。
なぜそこなのかというと、お煎餅に白い砂糖でメッセージを手書きで入れてくれるから。
それは直径15センチ程の大きなお煎餅で、こちらが希望する文字をそのお煎餅の上に書いてくれます。
10文字程度という制限があるので、綴りたいメッセージがたくさんあったとしても、入れられるのはひと言だけですが。
以前名古屋出身の方に贈ったお煎餅がこちら。
普通のお煎餅の詰め合わせと共に、このメッセージ入りのお煎餅を贈りました。
くすっとぐらいは笑ってくれたのではないかと思うのですが、どうだったんでしょう。
昔近所にお煎餅だけを売っているお店がありました。
透明の大きな容器にたくさんのお煎餅が入っていました。
種類は結構あって、20種類以上はあったように記憶しています。
子どもたちはお小遣いを握り、そのお店の前で容器に入ったお煎餅を見上げます。
子どもで背が小さかったせいか、お煎餅というのは上の方にある棚に並んでいて、見上げるものといった印象がありました。
今日はゴマにしようと決めると、女店主に「ゴマください」と言い、1枚だけ買いました。
1枚単位で買えるシステムでした。
紙製の袋にゴマ煎餅を入れて女店主が上の方から差し出してくれます。
それを私は思いっきり背伸びをして手を伸ばし、受け取りました。
今思うと、そんな保存方法でどうして湿気ずに保管できていたのか不思議なのですが、いつでもぱりっとしていて焼きたてのような香りがしました。
そうやってお煎餅を買っていたのは小学生の頃まで。
自宅と駅の途中にはなく、反対方向にそのお店はあったため、ぱったり行かなくなっていました。
それが高校生になった頃、たまたま用事があってそのお店の前を通りかかると・・・まったく同じ店構えでお煎餅を売っていました。
ちょうど小学生の女の子が、思いっきり手を伸ばしてお煎餅を受け取っているところを目にして、とっても懐かしくなりました。
やっぱり子どもはそうやって手を伸ばしてお煎餅を受け取らなくちゃ。
なんて、思いました。
小さい頃からよく観劇に連れて行かれました。
小学一年生でハムレットを観た記憶があります。
今なら年齢制限で劇場に入れないかもしれませんが、当時は騒いだりぐずったりしなければオッケーでした。
4時間を超す歌舞伎なども私は全然平気で、最初っから最後までちゃんと観ていました。
どちらかというと子ども向けのぬいぐるみショーが苦手だったようで「大きな動物が踊ってるー」と泣いて怖がったと親が言っていました。
どんな感性をしていたんでしょう。
シェイクスピア作品を一番観た時期は小学生から中学生にかけて。
今回のは役者が良くなかったとか、脚本が悪かったなどと生意気なコメントをしていた当時の自分が、今とても恥ずかしいです。
シェイクスピアは昔々の遠い国の脚本家。
その人の作品が今もたくさんの国で上演されている・・・凄いことです。
このシェイクスピアに恋をしてしまった男が登場するのが「週末は家族」です。
文庫が発売されました。
劇団を主宰する男が尊敬しているのがシェイクスピア。
男は自分で脚本も演出もしますが、上演するのはシェイクスピア作品か、シェイクスピア作品をアレンジしたもの。
シェイクスピアへの憧れが強くて模倣に走り、オリジナリティがないんですね。
これ、作家なんかも同じで、よくこういう壁にぶつかります。
好きな作家に憧れ、真似をします。
でも、それは結局真似でしかない。
いつかはそこから出て、自分の道を歩いて行かないといけない。
でもそれはとても難しい。
憧れている人が偉大であればあるほど、自分のオリジナリティなんて小っちゃすぎて、独り立ちなど無理だと思ってしまうのです。
諦めて一ファンとして生きるか・・・それもある意味、地獄です。
自分にしかできない作品とはなんなのか。
この究極の問いに向き合うのが、脚本家や作家。
それ以外にも、画家や創造する仕事に携わっている人も、同じような壁にぶつかるのではないでしょうか。
壁を乗り越える方法は人それぞれで、きっと見つかると信じて進んでいくしかないのですが。
「週末は家族」の中の男が、どうやってこの壁を突破するのか。
興味が生まれましたか?
でしたら、どうぞ文庫をお手に。
料理をするのがメンドー。
そんな日はありませんか?
私はあります。
どちらかというと、結構頻繁にあります。
いや、正直に言いましょう。
ほぼ毎日思っています。
とはいうものの、作らないわけにもいかない。
こんな時に便利なのが、冷凍パスタや冷凍ピラフなどのレンジでチンすればオッケーなもの。
が、これもちょっと続いてしまって飽きてきた。
なにかないだろうかと棚を引っ掻き回していたら、見つけました。
それがこちら。
以前知人から貰ったもの。
確か100円ショップで買ったと言っていたような。
自宅近くには残念ながら100円ショップがないので、こういう掘り出し物を見せられると、いいなぁと羨ましくなります。
ああいう店は宝探しのような楽しさがありますよね。
で、ご飯だけを炊き、こちらの缶詰を容器に移してレンジでチン。
どちらも普段自分が作るカレーとはまったく違った趣きの味で、なかなかのものでした。
昔、雑誌の編集者の友人から、カレーとラーメンの特集は必ず当たると聞いたことがあります。
店によって味に個性があり、皆が大好きだからとその友人は分析していました。
確かにカレーもラーメンもお店によって、工夫を凝らしていますよね。
ほかの専門店もそうなのでしょうが、特にカレーとラーメンにはそうした店主の熱意が直にこちらに迫ってくるように感じられます。
数年前のある日、ある街でお腹が空き、一軒のカレー店へはいりました。
午後7時過ぎというお店としては稼ぎ時の時間帯だというのに、客は1人もいません。従業員らしき女性が席に座っていて、隅にある小さなテレビを見上げているのみ。
その人がグラスに入れた水を持って来てくれましたが、メニューは出してくれません。
メニューはないようなので、ぐるりと壁に貼られたメニューを眺めます。
カレーは1種類だけですが、小盛り、中盛り、大盛りと盛り具合は3種類ある模様。
トッピングと書かれた紙があり、その横にはコーンやチーズ、卵などと書かれた紙が並んでいます。
ここに、ジャガイモ、人参、チキンといった紙を見つけ、どうやらここのカレーはごくシンプルなもので、各自でトッピングというよりは、具を加えていかないといけないようだと気が付きました。
さらに見ていくと、茄子、大根、カズノコ、イクラという紙が。
薄っすらとこの店が繁盛していない理由がわかってきたような。
なるべく浅い傷になるよう小盛りを注文し、ジャガイモとチキンのトッピングを選びました。
30秒で出てきたカレーは、茶色の液体に茹でたジャガイモ丸ごと1個と、鶏の唐揚げが1個のっていました。
スプーンを握ったものの口に入れるまでしばしの時間がかかったのは、なかなか勇気が出なかったからです。
えっ? 味ですか?
生涯で初めて食べたといった味でした。
もう1度その味を口にしたいかと聞かれたら、いえ、結構ですと即答するような味と言った方が伝わるでしょうか。
工夫や熱意が空回りするとこんなことになる・・・といった例を見せてもらった気がしました。
文庫「週末は家族」が発売になります。
5日ぐらいから書店に並び始めます。
柔らかくて温もりのある素敵な絵を使った装幀になりました。
単行本の時にもお願いした方に、今度は文庫用に新たに絵を描いていただきました。
装幀に使う絵というのはとても難しいんですね。
インパクトは欲しい。
でも、強さだけじゃなく、作品の雰囲気も同時に伝えたい・・・なんて時、編集者とデザイナーは頭を悩ませます。
いくつか出していただいた案はどれも素敵で、どうするかと悩んだ結果、決まったのがこれ。
決め手は、この絵には穏やかさだけでなく、その先へと誘うような奥行があるように感じたこと。
装幀が作品の入口だとするなら、扉の向こうに広がる世界を魅力的に見せてくれるような、物語性のある絵がいいように思うのです。
その点、この装幀はバッチリだと思うのですが、いかがでしょう。
きっかけは新聞記事でした。
そこでは週末里親という制度が紹介されていて、定年退職後、ご夫婦で実際に週末だけ施設の子どもを預かっている方たちの話が書かれていました。
その制度を知らなかったので、その記事を読み、驚いたことを覚えています。
それから色々と調べていくと、親子という難解な関係性に出くわしました。
親子だから。
親子なのに。
そういう世間の声に縛られて、呼吸困難に陥っている親子がいるように思いました。
私はいろんな形の親子があっていいと思っています。
血の繋がりがあってもなくても、どっちでもいい。
一緒にいる時間が長いとか、短いとかも関係ない。
大切なのは、躓いた時すっと手を差し伸べるとか、嵐の時には身体を寄せ合うこと。
そんなことがとても大事だと思うのです。
嫌いなところがたくさんあったとしても、そこに信頼があれば、多少の山あり谷ありはあっても親子関係は築いていける。
そんな思いで書いた小説です。
興味をもたれた方はぜひ、お手に取ってみてください。