洋画を観る時は字幕派ですか? それとも吹き替え派ですか?
私は字幕派です。
俳優さんたちの台詞をそのまま聞きたい。
言葉はわからなくても。
台詞の言い回しは、俳優さんたちの演技の一部ですから、そこだけ声優さんにバトンタッチして欲しくないのです。
映画に限らずテレビドラマも字幕を選択します。
海外のアニメ作品だけは吹き替えを選択して、日本の声優さんにお任せしますが、それ以外はオリジナルの声で味わいたい。
友人A子は英語が堪能。
でも一家で堪能なのはA子だけ。
だから家族で映画を観る時は、夫が希望する字幕タイプになるといいます。
字幕には守らねばならない決まりがあります。
人が文字を読めるスピードには限界があるため、言葉を正確に訳せばいいってものではない。
文字数に制限がある。
その制限内で翻訳するのですから、ニュアンスが微妙にズレてしまうこともあるでしょう。
A子はそれが気になってしまい、落ち着いて観ることが出来なくなるんだとか。
出来る故の苦労ですね。
夜の私の楽しみは温かいアイマスクをして、トロトロ気分になること。
目に温かいマスクを載せている15分間は、至福の時となります。
この15分の間、当然ながら目を瞑っています。
そして暇。
なので、テレビを点けておきます。
このアイマスクタイム中に相応しいテレビ番組はなにかというと・・・まずバラエティーは向いていません。
大抵全然面白くないのです。
恐らく画面にはテロップがたくさん出ていて、笑うポイントを親切に教えてくれているのでしょう。
でもアイマスクタイム中の私には、そうした説明も出演者たちの表情も見えないため、全然面白くない。
ドラマも向いていません。
俳優さんたちの表情がわからないから。
ただし1時間で事件を解決していく刑事ものはOK。
犯人が動機やアリバイのトリックなどを喋ってくれるので、表情が見えない状態でも、展開に全然ついていけちゃう。

「だったらニュース番組がいいんじゃないの」と思いましたか?
私もそう思いました。
ところが意外にも、海外の人へのインタビューが結構入るんですよね、ニュースって。
こういう時、字幕対応なのです。
吹き替えはしてくれない。
映画やドラマなどと違ってストーリーがないので、想像するのが難しくて、アイマスクタイムが終わった時、私の頭の中には「?」がたくさん浮かぶ状態になってしまうのです。
アイマスクタイム中にニュース番組を選択した時には、吹き替え希望派になります。
「どうやってアイデアを生み出すんですか」とよく聞かれます。
私はさぁと首を捻ります。
なんとなくというのが真実に近いのですが、そう答えても大抵許して貰えません。
しょうがないので「付箋を家のあっちこっちに置いておいて、なにか思い付いたらすぐに書き留めるようにしています」と答えます。

それは覚えておく手法であって、質問に対する答えじゃないでしょといった顔をする相手。
私はそれ以上答えようがないんですといった表情を浮かべます。
そうすれば、それ以上の追及はかわせます。
なんで思い付いたのかって聞かれても、私にだってわかりません。
生み出る経路や方法がわかっていたら、苦労はしていません。
たまに「私はなんにも浮かびません」という人がいます。
そんな時にはいつもこう答えます。
「浮かぶ前に諦めてしまっているんじゃないですか? 浮かぶまで考え続けるんです。うんざりするぐらい考えて考えて、考え続けて、そうやって捻り出すんです」と。
付箋といえば・・・自宅のココアの箱に付箋が貼ってあるのを発見。
以前ココアに嵌り毎日飲んでいました。
開封済みのが1箱。未開封のが2箱。合計3箱がありました。
このうち開封済みの箱に付箋が貼ってあり、×と書かれていました。
どう考えても私が×を書き、どう考えても私がココアの箱に付箋を貼ったのでしょう。
それなのに・・・それの意味するところが、わからない。
×ってなに?
捨てるってこと?
だったら付箋なんか貼ってないで捨てればいい話。
在庫の3箱のうち、これから先に使うという意味で記を付けた?
でもこうした場合なら×ではなく、〇を付けそうな・・・。
それに1箱だけが開封済みなのだから、これから使うということは、付箋を貼らずともわかるんじゃない?
いくら私がぼんくらでも。
こんな風に自分が付箋に書いた言葉を後日目にした時、その意味がわからずに途方に暮れる・・・なんてことがままあります。
プリンターに「サイ」と書かれた付箋を見つけた時には、長いことその場で考え続けましたが、結局その意味はわからないままとなりました。
洗濯機の蓋に「あとで」と書かれた付箋を発見したこともありました。
後でなにをするつもりだったのか、そっちを書けよと己に全力でツッコみましたっけ。
謎を自ら作り、その謎に翻弄されながら、今日も頑張って生きています。
帰宅途中でスーパーに寄りました。
お店の籠を手に持った瞬間「今日は料理をしない」と決断。
真っ直ぐ総菜売り場へ。
そこはお店で一番混んでいるエリアでもあります。
握り寿司を購入して自宅へ。
夕食にその握り寿司を食べました。
美味しかったしボリュームもあって、満足しました。
ところが。
30分もすると喉が渇いて渇いて・・・白湯をがぶ飲みするはめに。

これ、初めての経験ではありません。
スーパーや宅配のお寿司を食べた後、大抵こんな風になります。
寿司店などで食べた時にはなりません。
スーパーや宅配のお寿司限定で喉が渇くということは、品質を長時間保つために使っているようなものが、原因なのでしょうか。
謎です。
そこのスーパーの惣菜責任者は恐らくニンニク好き。
いろんな総菜にニンニクを入れる。
鶏の唐揚げといった定番ものでも、ニンニクをたっぷり使っていると謳って並べている。
ニンニクを使っているとは表記されていない鶏の唐揚げも、あることはあるのですが、その量は少ない。
ニンニク入りのが9に対して、ニンニクなしが1ぐらいの割合。
ニンニクなしの方は端っこに置かれていて、その立場の弱さを物語っています。
この割合、正しいですか? と責任者に確認したい。
売上データを見て作っているだろうとは思うのですが、ニンニクを使った唐揚げが、そうではないものの、9倍も売れていくものなのだろうかとの疑問が。
責任者の好みじゃなくて? と思ってしまいます。
スタミナ炒めと称した炒め物に、ニンニク入りと書いてあるのは受け入れるとしても、コロッケみたいなものにさえ、ニンニクが入っているものがあるっていうのは、フツーじゃない気がします。
「〇〇さんがまた、ニンニク入れろって言っているのよ」
「またなの? 好きよねぇ、〇〇さんはニンニクが」
なんて、総菜作り担当のパートスタッフたちの会話が、頭に浮かんできます。
それとも私が住む街は、ニンニク好きな人たちが多くいるエリアなのでしょうか。
謎、多し。
幼き頃、寝る前に母が本の読み聞かせをしてくれていたらしい。
記憶なし。
色々な本を読んで貰ったようですが、私の一番のお気に入りは桃太郎だったそうです。
記憶なし。
「今日はなにがいい」と聞くと、「桃太郎」と答える確率が異常に高かったという。
記憶なし。

毎晩のように同じ話をリクエストされるし、眠くなるしで、母がテキトーに端折って読んだりすると、「そこ、違うよー」と指摘していたようです。
覚えているくらいであるならば、読んで貰う必要があったのだろうかと、幼い頃の自分にツッコむ。
これまで本を読んできました。
読むスピードはどっちかというと遅い方なので、冊数としてはそれほどではないかも。
取りつかれたかのように一心不乱に読む時期があるかと思うと、まったく本に触れない時期もあり、読書熱には波がありました。
波はありながらも常に読書は身近でした。
20代の頃にアガサ・クリスティーに嵌り、読書録を記そうと何故か決めました。
当時は1冊読み終えるとノートに手書きしました。
勝手に点数を付けたりもしていました。
飽きっぽい私が、不思議とこの習慣を現在まで続けています。
今はパソコンの中にですが。
映画やテレビドラマも同様に感想を書きます。
どこかに発表するのではなく、あくまでも個人的感想を記録しておくのが目的。
だから遠慮せずに正直に書く。
後で読み返すと、恥ずかしくなるくらいに素直な感想が綴られています。
本にはあまりないのですが、映像作品には結構辛辣なコメントも。
こういう終わり方は有罪だとか、最後まで登場人物の誰にも感情移入が出来なかったとか、女優さんの胸の大きさしか記憶に残らなかったとか、この映画の企画書を読んだ人が、よく制作費を出そうと決心したよな・・・とか。
こんな辛辣なコメントをした映像作品であっても、数年後にもう一度見たら、評価が違う可能性もあります。
高校生の頃、ある映画をテレビで観ました。
名作という評判のあった映画でしたが、私は「長いよ」という感想しかもちませんでした。
20代になって、その映画をレンタルビデオで観ました。
主演女優さんの美しさと衣装の豪華さに魅了されましたが、それだけでした。
そして今から10年ほど前に、DVDでまたまた観る機会が。
すると・・・感動して泣きました。
不器用な女性がすぐ側にあった幸せに気付かず、大切な人を傷付け、結局独りになってしまうというストーリーに嗚咽。
この映画の素晴らしさに気付ける大人に、ようやくなったみたいです。
小説も映像作品も、受け手の熟成度によって味わい方が違うんですよね。